【炎の闇】

 ジェムズは珈琲を頼んだ。デクターは香茶が好きらしい。フェルドはこういう場合どんな飲み物を頼むのだろう、と、マリアラは考えた。シフトに入っている時は、甘くない炭酸水をよく飲んでいたけれど、喫茶店などで誰かと話をする時はどうなのだろう。こんなに大好きなのに、フェルドについて知らないことが多すぎる。

 ミーシャはもう知っているのだろうか、と、考えてしまう自分の弱さにうんざりして、マリアラはそれを振り払うべくジェムズとデクターに、まだたくさん残っている一口大のケーキの乗った皿を差し出した。

「よかったら一緒にどうぞ。とってもおいしいんです、でも、食べ切れそうな気がしなくて」

「ありがとうございます」

 ジェムズは微笑み、礼儀のようにひとつつまんだ。その指先までもがごつごつしているのをマリアラは見た。無骨だけど温かそうな手だ。

 甘いものは嫌いではないらしく、ジェムズは美味しそうに食べた。こういう場合フェルドならばどうするだろうとまた考えた。デクターも食べた。でもフェルドは食べないだろう。申し訳ないけど甘いものは食べられないので、と、丁重に断るだろう。フェルドの行動を自分にも予測できる部分もあるということにホッとする――ミーシャもできるだろう、という考えには急いで蓋をする。どうしたのだろう、ジェムズの登場で、やけにフェルドのことを考える。

「くつろいでいらっしゃるところ、お邪魔してすみません。同行者の方がお出掛けのうちに、ぜひ、お話ししておきたいことがあって」

「いえ、どうぞお気遣いなく」

 話したいことって何だろう。思わず居住まいを正したマリアラの前に、ジェムズは、小さな小箱を差し出した。宝石箱を小さくしたような入れ物だった。一面の辺が親指くらいの長さの、ビロードで覆われた立方体の箱だ。

 何だろう。

 開けるようにと目で促され、マリアラはその箱をそっと開けた。

 中には小さな小さな、小指の先くらいの丸い宝石がひとつ。

 マリアラは目をこらしてそれを見た。宝石、じゃない。魔力の結晶だ。中に、ごくごく小さな……一ミリ四方くらいの点が見える。何か複雑な機械のように、見える。

「何ですか、これ……?」

「【炎の闇】――グールドから、あなたに渡すようにと頼まれたんです」

 ジェムズは丁重な言い方で言った。

 マリアラは、そしてデクターも、ジェムズを見た。

「グールド?」

 声も重なった。ジェムズは重々しくうなずき、ポケットからもう二つ、小さな箱を取り出した。形は化粧用のコンパクトに似ているが、それにしては大きい。それが二つ。どちらもそっくりだ。

「この三つは、対になっているものです。こちらは」と魔力の結晶を手で示し、「グールドの体内に入っていた発信機。そしてこちらが」と二つのコンパクトを手で示した。「受信機です。作動させれば、こちらの発信機の居場所を把握できます。……俺と、ミランダ=レイエル・マヌエルと、シグルドは、グールドと取引をしたんです。一月ほど前になりますか。あなた方が【出口】を使ってウルクディアから出た、直後のことでした」

 ジェムズは相変わらず丁重な話し方で、グールドがミランダを襲った話をした。

 ミランダが自分を囮にしてグールドをおびき寄せ、マリアラを捕まえないように頼んだという事実を、マリアラはその時初めて知った。

 ――ミランダ、そんなこと何も言ってなかった……。

 シグルドもジェムズもその時刺された、と、ジェムズは淡々と言った。グールドの動きはジェムズとシグルドの予想を遥かに越えたものだったと、ただ事実を話す口調でゆっくりと。

「俺は一度死んだようなものです。……助かったのはひとえにあなたのお陰なんです」

 話が衝撃的過ぎて身動きもできないマリアラを見つめ、ジェムズは微笑んだ。

「グールドは、初めから、あなたを捕らえる気などなかったんです。エスメラルダの言うなりになるふりをして、ミランダに近づき、発信機を取るよう依頼する気だったようですね。ただそこに、俺とシグルドが潜んでいたから、交渉を有利にするために、俺とシグルドを刺したんです。シグルドはともかくとして、俺を生かしておくメリットはなかったはず。王太子の部下です、殺した方が安全だったに決まっています。それでも俺を生かしたのは、あなたにこの発信機と受信機を渡すため、それと、あなたに責を負わせないため。それだけです」

「ど……どうして……」

「今あなたを守っているのが【風の骨】ひとりだからです」

 ジェムズは机の上の、魔力の結晶に包まれた、小さな発信機に目を落とした。

「グールドは死にました。初めからそのつもりだったんです」

「……」

「グールドは発信機を取ってもらった後、エスメラルダに入り、顔見知りの保護局員を捜しだし、拉致し、彼女と係わりある少女寮の寮母ひとり及び児童十五名を人質に取り、」

「……っ」

 ――保護局員って、リンだ、きっと。

 直感を肯定するように、ジェムズはうなずく。

「解放と引き換えに、それまで行方の知れなかったフェルディナント=ラクエル・マヌエルを外に出し、自分に会いにこさせるよう要求したのです」

 頭を殴られたような気がした。

 ――だから絵の中で、フェルドは、監禁されずに外にいたのだ。

 ジェムズはまたうなずき、低い声で続けた。

「グールドはひとりも殺しませんでした。自分が誰かを殺したら、自分を助けたマリアラ=ラクエル・マヌエルが、その誰かを殺したも同然だから、もうこれ以上誰も殺さないつもりだと、俺の前ではっきり言いました。だから俺が今生きているのもあなたのお陰というわけです。……グールドの死は、ミランダは知りません。グールドは、彼女には、死ににいくつもりだということを言わなかった。言ったらきっと彼女が止めるだろうと思ったんでしょう」

 ジェムズは哀しそうにマリアラを見た。

「俺はあなたにも言いたくなかった。そんな顔をするとわかっていました。でも……グールドと約束したので……言わねばなりません。

 グールドから伝言です。『自分のせいだと思わないでほしい。僕は自分のしたいことしかしない。あなたのためではなく、自分のしたいことをするだけだ。気に病まないで、ただどうか、覚えておいてほしい』」

「……覚えて……」

「『ただそれだけで、充分だから』と」

「……そんな」

 マリアラは絶句した。そんな。

 そんな、ことって。

「この三つを、渡してほしいとも頼まれたんです。この魔力の結晶に鎖を通せば、ペンダントにして持ち歩けるでしょう。魔力を通わせない限り、作動はしません。作動させるかどうかは、あなたの意志で選べます。

 ただグールドは、あなたの護衛が【風の骨】ひとりだという現状が不安だったんでしょう。……俺もですが。ペンダントをあなたが持ち、受信機を【風の骨】が持っていれば、あなたが【風の骨】とはぐれ、危機に陥った時、【風の骨】にあなたの居場所が分かります。受信機は誓ってこれだけです。国会には同じ受信機がいくつもありますが、このペンダントの波長を受信できるのはこれだけだと断言します。

 作動させなければただのペンダントです。お守り代わりに、してあげてくれませんか」

 拒絶など、できるわけがない。

 マリアラには、本当に分からなかった。なぜあの狩人が、そこまで、命を投げ出してまで、マリアラのために、フェルドを自由にしようなどと考え、実行してくれたのだろう。あの雪山で、あんなに恐ろしかったのに。魔物にもマリアラにもリンにも、ラセミスタにも、本当にひどいことばかりした人なのに。

 感謝の念しかない、それはもちろんだ。本当にありがたいことだ。

 でも、どうしてなのだろう。出張医療の時は顔見知りのマギスを躊躇いもなく刺したのに、どこで、どうやって、人を殺さないと誓うまでに至ったのだろう。

「どうしてなのか、と、考えていますね」

 ジェムズが言い、マリアラは、呆然とうなずいた。

 マリアラの目の前で、自分の腹を切り裂いてまで、発信機を取ってくれと懇願したあの人。

「発信機」声が震えた。「わたし、取って、あげなかっ……の、に……」

「グールドは、あの時、取ってもらおうと思ったわけじゃないそうです。ただ、左巻きであるあなたの前で、自殺しようと思ったのだそうですよ。発信機を腹にいれたまま生き続けるのは苦しすぎた、だから死にたかった。どうせ死ぬなら、誰かを巻き添えにしたいと思ったと。【風の骨】とフェルディナント=ラクエル・マヌエルの大事な存在であるあなたの心を、巻き添えにしたいと、ただそれだけの理由で、あなたの目の前で自分を殺そうとした。左巻きにとって一番苦しいことは――誰かが目の前でもがき苦しみながら死んでいくのを、何もできずに見送ることだと確信して。あなたが保身のために彼を見捨てるだろうと、そのせいで一生後悔の念に苛まれるだろうと思って、グールドは、自分と一緒に、あなたの、左巻きとしての純粋な慈愛の心を殺そうとしたんです。でも」

 ジェムズは微笑んだ。

「あなたは保身など考えず、グールドを助けてしまった。もうこれ以上ひどいことをしないで、と、言ったそうですね。グールドは驚いたんですよ。生涯で一番の驚きだったと言いました。誰からも忌み嫌われ恐れられる殺人鬼が死ぬ。普通は喜ばれることじゃないでしょうか。なのにそれがあなたにとってはひどいことなのかと、もう本当に目から鱗、と、言ってましたよ。そこまで底抜けなのかこの子は、バカじゃないか、と――グールドの発言をそのまま繰り返しているだけです、すみません」

「………………いえ……」

「それでまあ、グールドは、初めて、金や名声のためじゃなく、何かひとつ大きなことをして死のうと、思ったのだそうです」

 沈黙が落ちた。

 わたしは弱い上に愚かだ、と、ぼんやりマリアラは考えた。こういうとき、撃てば響くような反応ができない。じわじわと現実が染みてきてふに落ちるまで、言うべき言葉さえ見つけられず、ただ呆然と事態を見つめるしかない。こんなちっぽけで愚かな自分に、なぜ、グールドは、命さえ投げ出すほどの価値を見いだしてくれたのだろう。

 マリアラが一番望むことは、フェルドとの再会だ。

 でもエスメラルダの奥底にフェルドが閉じ込められたままでは、どんなに頑張っても無理だっただろう。だからグールドはチャンスをくれた。自分の命と引き換えに、とても重要な条件の一つを、整えてくれたのだ。

「覚えてます」

 ようやく、そう言った。ジェムズにではなく、ペンダントの中に沈む小さな小さな贈り物に向かって。

「ずっと、覚えてます……」

「ありがとう」

 哀しそうにジェムズは言った。

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