マルゴットとミランダは、ギョッとした。レイルナートの目が焦点を失っている。そのまま倒れるのではないかと思った時、マリアラが動いた。壁際のサイドテーブルの上においてあったスケッチブックと木炭をもって戻り、白紙のページを選んでレイルナートの前に置く。
レイルナートは倒れなかった。目に光が戻り、はあ、とため息をついて――
木炭を取り上げて絵を描き始めた。
ものすごい勢いだった。
マルゴットとミランダは身を乗り出してそれを見た。まるで写真がプリントアウトされる過程を見ているかのようだった。すさまじい勢いで木炭がスケッチブックの上を滑り、絵が、立ち上がってくる。木炭の黒によって複雑な陰影を加えられていくその絵は、とても美しかった。
しかし、内容が、よくわからなかった。
どこかの建物の入り口が描かれていた。何の変哲もない、古びた、ホテル……だろうか? 木炭だけで描かれているので色は解りづらいが、どうやらレンガ作りのホテルだ。玄関は一枚の扉で、見るからに透き間風の入りそうな古ぼけ具合。レンガも古びて薄汚れ、看板は傾いていて今にも外れそうだ。文字も消えかけてよく読めず、うらぶれた場末の雰囲気を漂わせている。路面から玄関までの階段は石で、三段になっていて、二段目のひとつの石がぐらついているのがよく見える。
「……これ、なに?」
ミランダが訊ね、レイルナートが何か言った。
マルゴットには、意味の分からない音の羅列だ。でもミランダとマリアラには通じるらしい。ミランダが眉をひそめ、マリアラが、指を指した。二段目の階段の、ぐらついている石を。
「この石……誰かの足が乗ってるんじゃない?」
「……誰もいないよ?」
ミランダが言い、マリアラは、顔を上げてミランダを見た。
それから、レイルナートを見た。
「レイルナートは、目の前にいる誰かの強い思いに刺激されて、その誰かが思っている相手の断片を視るんだって」
「……え、え?」
ミランダが眉を寄せ、マリアラは、またミランダに視線を戻した。
「これ、トールの絵じゃない?」
「トールの絵? でも、」
「レイルナートの神託には、アルフィラは写らないのかも」
マルゴットもマリアラの指先を視線でたどり、確かに、と思った。その石のぐらつきは不自然だった。何も乗っていないなら、こんな傾き方はしないだろう。
トールの乗っていたプレイマットは、あの外見から受ける印象よりはるかに深く沈んでいた。トールの体重は、見た目よりずっと重いのだ。
あれほどの重さがあれば、確かに、この大きな石もぐらつくだろう。
「……トールが、ここに?」
ミランダはスケッチブックを受け取り、それをつくづくと見た。レイルナートが何かを言い、ミランダはうなずいて、首を振る。
「トールはね、生まれたばかりなの。ヴィヴィもね。あの子が行ったことある場所は、私はたいてい知ってるはずなの。こんな建物はエスメラルダにはないはず。透き間風の入る木の扉を放っておくなんて、エスメラルダでは自殺行為だわ。それなら、ウルクディアか――」
「違うと思います。私、ウルクディアで、トールの案内役をしていたんです。トールが【魔女ビル】にいないときは、たいてい一緒にいましたから。こんな建物に一人でいったなら、報告が入っているはずです」
マルゴットは請け合い、ミランダはありがとう、と言った。
「ウルクディアでもない。それなら、ここ二、三日中に、トールが行った場所だと思うわ……」
「トール、行方不明なの?」
マリアラが訊ね、ミランダは苦笑した。
そしてスケッチブックをおき、両手に顔をうずめた。
「……ごめん。トールは……私から逃げたのよ」
「逃げた……?」
「言ったでしょう、トールは、裁判で係争中の、当のその財産なの。警備は厳重だったの。外からトールを誘拐するなんて、絶対無理だったはず。なのにトールはいなくなった。中から鍵を開けて、自分の意志で。私に心を許さないまま……ヴィヴィの記憶のバックアップディスクを送ってもらえたって、言ったでしょう……トールは、ヴィヴィの記憶をインストールされるのが嫌だったんだと思うわ」
「……」
「私は、ヴィヴィも、トールも、どっちも受け入れたいの。だってどちらも、あの子なんだもの。ヴィヴィが欠けてもトールが欠けても、もうあの子じゃないわ。トールにもそう言ってた。今のままでいいんだって。ヴィヴィの記憶だって、無理に思い出させる気はなかった。わかってくれてるって、思っていたわ。……あの子は、ダスティンに、ひどいことをされていたの。トールと相棒になったことを後悔してたダスティンは、トールに魔力の結晶を与えないで……飢えさせて……そのまま壊れてくれればいいのにって、思っていたのよ。トールもそれは分かっていて。傷ついてた。シグに、優しくされたら悲しくなるって、話したそうなの。だから私は」
ミランダは鼻をすすり、顔をこすり、下を向いた。
「トールに、ゆっくり、わかってもらおうと思っていたの。私は本当に、本当に、トールが好きなんだよって、ヴィヴィもトールも引っくるめて、あなたが大事なんだよって。最近、少しずつ、トールが逃げなくなったような気がして……自惚れてたわ、私。わかってくれたんだって思い込んで……ラスに頼んで、魔力供給者の設定を、私にしてもらう段取りを、整えた。あさって、トールと一緒にガルシアに行く予定だったのよ。そしたら……トールは逃げちゃった。私の相棒でいたくないって、思ったのかな。やっぱり」
「……ミランダ……」
マリアラがミランダの手を握り、ミランダは、下を向いたまま、微笑んだ。
「でもね、諦める気はないの。シグとベインさんが、捜してくれてるわ。シグはね、運転士の資格を取ったのよ? それでね、こないだから、列車にのる仕事に変わったの。まだ見習いだけど」
「すごいね」
「でしょう? それでね、行く先で捜してくれてる。ベインさんもいろいろと手を尽くしてくれてるみたい。……私は、あの子を諦めたりしない。絶対取っ捕まえて、お説教してやるわ」
ミランダは微笑み、スケッチブックを見て、レイルナートを見た。
「どうもありがとう、レイルナート。この絵、もらってもいいかしら? ベインさんに頼んで、この建物を捜してもらうわ」
レイルナートがうなずいた。マリアラもミランダもマヌエルだから、言語を知らなくても意志疎通ができるのだろう。
その後しばらくして、【風の骨】が戻って来た。
食べ盛りの女の子たちでさえ仰天するほどの食べ物と一緒に。
マルゴットはその夜の奇妙なパーティの間中、ちびちびワインを飲みながら、彼らをゆっくり観察していた。【風の骨】は狩人にいたころ、他の人間と深く関わるのを避けていた節がある。こういった場で誰かとしゃべったり食べたり飲んだりしたことは、マルゴットの知る限り一度もなかった。食堂にも姿を見せず、入浴もせず――【風の骨】が食べたり飲んだりくつろいだりしている姿を、ほとんど見たことがないのだ。
それは姿を変えていたからだろうか。くつろいだり気を許したりしたら、変装を維持できなかったりするのだろうか。そう思ってしまうほど、本来の姿に戻っている彼は屈託がなかった。女性ばかりと言う場でも全く気にする様子もなく、意外によく話し、びっくりするほどよく食べた。マルゴットは感嘆した。テーブルに乗り切らないほどの食べ物の、ほとんどを彼が平らげた。余ったらどうするのだろうと思うほどの量だったのだが、全く余らなかったのだ。この胃袋を千年持ち続けているなんて、非効率的だと言わねばならない。
ミランダはトールを心配している内心をそれ以上外へは出さなかった。マリアラが気が付かなかったら、ここで吐露することもなかったのだろう。にこにこ笑ってよく喋り、エスメラルダの人達の、彼女の知り得る限りの近況をマリアラに語って聞かせた。今までは、ミランダのよそ行きの顔しか見たことがなかったのだと、観察しながら考えた。友人を前にしたミランダは可愛らしく賑やかで、面白かった。もちろん、大変な目に遭っている友人を元気づけようと、いつもより賑やかにしていたのだろうけれど。
レイルナートは食文化も違ったらしく、出された食べ物を、初めはかなりおっかなびっくり食べていたようだ。でもひととおり味見をすると、気に入ったらしくよく食べた。ほとんど喋らないが、時折見せる笑顔は可愛らしかった。こんな可愛らしい子が焼かれずに済んで本当によかった。酔いも手伝って、ほろりとした気分になってくる。
マリアラは聞き上手だった。相槌の打ち方が絶妙で、身を乗り出すようにしてミランダの話を聞いていた。聞きたくて聞きたくてたまらないのだという様子が、全身から滲み出るような聞き方だった。エスメラルダにいる家族や相棒の近況に飢えているらしいその様子に、聞かれているわけでもないこちらまでほだされてしまいそうになる。
話を聞く熱心さに反し、彼女はそれほど食べなかった。食べ物にあまり関心がないのか、ミランダの話を聞くのに一生懸命で、食べるどころではなかったのか。後者だったらいいと思う。以前見た写真よりかなり痩せている。逃亡生活に倦み疲れて食事への関心が失せているのだとしたらこの先が心配だ。これ以上痩せたら体調を崩すのではないかと思えてならない。この年頃にあまり痩せると、発育にいろいろな不具合が生じる、という医学レポートを以前読んだことがあるし、などと、保護者のような気持ちを持ってしまうほど、彼女の変化は劇的だった。
以前見た、孵化したばかりの頃の写真では、マルゴットは、マリアラに『平凡』という印象を抱いた。どこにでもいる、普通の少女だった。クラスの中にいつでもひとりかふたりはいる。目立たない優等生、という感じの子だった。
でも今は違う。赤みが減り陰影を帯びた頬が大人びて、不思議な美しさを持ち始めている。時折瞳に宿るさまざまな色に、いちいち目を奪われる。大丈夫だろうかと心配になるほどだ。目を離したらこのまま消えてしまうのではないかと思うような儚さと、ミランダの話に見せる楽しげな笑顔との共存は、マルゴットの今まであまり接してこなかったタイプの危うげな美しさだ。
彼女は花開こうとしていた。平凡だと思っていたつぼみがほころんだら、中から見たこともないような見事な色が覗いていた。どんな花が咲くのだろうと、期待と羨望を抱かせる。同時に懸念をも。この花が開く前に手折られたらどうしよう、という、漠然とした不安も。
この変化を知ればどう思うだろうと、まだ写真でしか見たことのない相棒に思いをはせる。
偽物に心を奪われて、差し出された安寧な座に積極的に座ろうとしている――そうとしか思えない行動を見せている、フェルディナント=ラクエル・マヌエル。ミーシャはマリアラの偽物でしかないのに、それで満足なのだろうか。ミーシャがマリアラの後を追う限り、本物を超えることは絶対にない。だってほら、今のマリアラとミーシャとは、もう全く似ていないのだ。髪形だけの話ではない。おとなしく可愛らしいだけの優等生という殻を脱ぎ捨てたマリアラは、もう次の段階に進もうとしている……
そこでマルゴットは、初めて、自分の感情の正体に気づいた。
王太子の秘書としてメリットがあるわけでも、報酬が出るわけでもない。それどころか自分の時間とさまざまなものを差し出して、彼らに協力しようと思ったのはなぜなのか。
仲間に入りたかったのだ。きっと。
事件の渦中にある彼らに協力することで、少しだけでも彼らの物語に、加わりたかったのだ。
十代のころは、自分の物語を望んでいた。平凡な日常などよりも、はらはらしてドキドキするような、波瀾万丈の生活に強い憧れを抱いていた。【狩人】に惹かれたのはきっとそのせいだった。
でも今はもう、自分の物語はそれほど劇的なものではなかったことを悟っている。それを、ありがたいと思う。刺されるのも追われるのも殺されかけるのも、怖いのも悲しいのも辛いのもごめんだ。
けれど、マルゴットにもまだ、自分の物語を望んでいた時の気持ちが残っていた。何かしたいという気持ちの名残。大きな出来事に関わりたいという熱望の余韻。
マリアラやミランダという、冒険の渦中に投げ込まれてしまっている、健気で気立てのよい女の子たちの境遇を、たとえほんのひとときだけでも居心地よくすることで、彼女らの物語に善なる人間として加わりたい。そういう願望が、自分の中にあったのだ。たぶん。
――あのいけ好かない同僚は、こういう気持ちを抱いているだろうか。
チーズをつまみ、グラスの最後の一滴を飲み干しながら、そう考えた。
彼も王太子の部下という立場を逸脱して、ミランダに力を貸しているらしい。今頃はどこにいるのだろう。いなくなったトールは、どこへ行ったのだろう。
そしてマリアラと【風の骨】は、これから一体どこへ行くのだろう――。
エスメラルダに入るにしても、その前に、エスメラルダの外に拠点を作り、中の人間と連絡をとる必要があるだろう。エスメラルダのルクルスに協力を仰いで、フェルディナントを外に出す算段を考えて、整えなければならない。その拠点はどこにするのだろう。王太子の別荘か何かを提供できないか――などと考え始めている自分に気づき、マルゴットは苦笑した。いくらなんでも、王太子にそこまでの借りを作りたいとは思わないだろうし、エスメラルダの中と連絡を取り合うための拠点まで王太子に教えるほど、【風の骨】はバカではないだろう。手助けを申し出ても丁重に辞退されるのがオチだ。
それなら王太子の秘書を辞して、と言い始める自分を宥めてあしらいながら、今夜はもうワインはおしまいにしよう、と、考えた。これ以上酔ったら、自分が何を口走るか分かったものじゃない。『善なる大人の協力者』があまり醜態をさらすべきじゃないし。そう考えて微笑みながら、マルゴットはグラスに炭酸水を注いだ。

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