間話 王太子秘書マルゴットの観察

 トールのお守りから解放され、マルゴットは久しぶりの休暇を満喫していた。

 髪を下ろして好きな服を着て、映画を観たり食事をしたり、臨時ボーナスで思うさま散財したり、気に入った行きずりの男性とクラブで踊ったりバーに行ったり。一週間の休暇は瞬く間に過ぎ、明日が休暇の最終日、という夕方。

 ウルクディアの有名な屋台通りを歩きながら、マルゴットはうきうきしていた。さっきの店で買った大きな紙袋二つは、口をしっかり留めて小さく縮め、ハンドバッグに入れてある。ワインとチーズとオリーブオイルとナッツと果物、上等なトマトとセロリ、アスパラガスの瓶詰めとフォアグラとキャビア、サーモンや鴨のムースの缶詰、生ハムとバゲット。完璧だ。あとは屋台で、何か温かいものをひとつ買えば準備は万端。
 明日は休暇の最終日だ。今夜は好きな映画を観ながら、ひとりで、パジャマで、すっぴんで、心おきなくのんべんだらりとすごす予定である。幸せだ。

「明後日からまた仕事かぁ」

 一週間徹底的に遊んだお陰で、そろそろ、仕事に戻る日が楽しみになっている。トールのお守りは済んだから、また通常の業務に戻ることになるだろう。王太子のスケジュールを思い浮かべる。ひと月先にはレイキア訪問が控えているし、その直後には国会が始まる。付随する雑務のあれこれを同時に思い出しそうになり、マルゴットは首を振った。明日まではまだ休暇だ。今日はまだ思い出さなくていいことだ。

 と。

 傾けた視線の先に、ちらりと、人影が見えた。
 マルゴットは目を見張った。

 夕暮れの屋台通りは混み合っていた。夕飯を求める住民や観光客でごった返している。だから見間違いかとは思ったのだが――。

「……時期的に、そろそろ戻ってきてもいいはずだわね」

 独り言を言い、マルゴットは道を外れ、屋台の隙間をくぐり抜けて路地裏に出た。

 ここには人けがない。背後の喧噪が切り取られたように遠ざかり、まるで別世界に入り込んだみたいだ。
 先程見かけた人影もどこにもなかった。

 確かにここに、入っていったのに。マルゴットは首をかしげ、あたりを見回した。狩人の【夜の羽】の秘書をやっていた頃から、周囲に気を配るのには慣れている。誰も追いかけてきていないし、誰かが潜んでこのあたりを注視しているような気配もない。どうしようかと考えたとき、少し先に人影が揺らいだ。

 瞬きをすると、そこに、少年がひとり立っていた。

 ――やっぱりだ。

 王太子から一度、見せられたことがあった。ウィナロフ――【風の骨】の、本当の姿の写真を。

 マルゴットは狩人に在籍していたのは三年ほどだったが、その間にも噂は聞いていた。【風の骨】は前代はヴェルテスという五十がらみの厳つい男で、今代はウィナロフという若い精悍な顔立ちの男だが、そのふたりは実は少年が姿を変えて演じているもので――それどころか、狩人を作った初代の【風の骨】から四十年以上も、ずっと、その少年が姿を変えて演じ続けてきたのだ、という噂。

 眉唾だと思っていたが、王太子から同じ事を聞かされ、写真も見せられて、半信半疑でいた、けれど。

「……【風の骨】?」

 訊ねると少年は、ふうっ、とため息をついた。

「やっぱりご存じでしたか」声もウィナロフとは違う、声変わりの終わりきっていないことを思わせる、かすかに嗄れた余韻を持つ高めの声だった。「わかっていただけて話が早い。さっき戻ってきたんです。時間が早かったので、屋台で食事でも、と思っていたところで。よく見つけましたね」

 わずかに警戒のにじむ声。マルゴットは首をかしげ、

「ちらりと見えただけで……ああ、あの」気づいて苦笑し、自分の姿を示して見せた。「私、休暇中なんですよ。ご覧のとおり、普段着で、お見苦しいところをお見せして。本当に偶然、ちょっと見かけただけなんです。王太子殿下から、写真を拝見したことがあったものですから、びっくりして。何か、お手伝いしますか? 私の前に出てこられたと言うことは、それが理由でしょう?」

「休暇中ならお手を煩わせるのは申し訳ないですね」

 【風の骨】は言うが、マルゴットは微笑んだ。ハンドバッグを手首に引っ掛けたまま両手を広げる。

「離宮へ寄られる理由はもうないはず。ミランダ=レイエル・マヌエルの近況ですか? それなら、【魔女ビル】に直接行かれても大丈夫ですよ。ジレッドもベルトランももうウルクディアにはいません。行き先までは、離宮に問い合わせないと――すみませんね、私、一週間もお休みをいただいていたものですから。でもウルクディアにいないことは確実ですわ。それからトールもね」マルゴットは笑みを深めた。「もう無害ですわ。あの子は今はその所有権を巡って裁判で争われている最中ですから、エスメラルダの校長と通じてどうこうってことはもうできないはずです。だから、【魔女ビル】は大丈夫ですよ。職員に見つからない方がよろしければ、私がミランダを呼び出してもよろしいですわよ?」

「休暇中にお手を煩わせるのは申し訳ないですが……」

 【風の骨】が先程とは言い回しを少し変え、マルゴットは皆まで言わせなかった。

「トールには私、さんざん手を焼かされましたしね。ミランダとその婚約者の陰謀にも少しだけ荷担させていただきましたから、その後が気になっていたんです」

 そして――そう。
 ジェイムズ=ベインが、グールドとの対決やその後に深く関わっていたことが、マルゴットには悔しかったのだ。

 マルゴットが関わったのは、ミランダに、凄腕の弁護士を紹介し、いくつか便宜を図る、ということだけだった。もちろんグールドに刺されたいとは思わないけれど、あのいけ好かない同僚が抜け駆けしていたことが悔しくて、つまらなかった。トールのお守りという退屈で刺激の無い仕事を根気よく続けていたのはマルゴットだというのに、一番美味しいところだけ横からさらわれてしまったのだ!

 この期を逃してなるものか、という気持ちだった。何より今は休暇中だ。もちろん職務規程には縛られるけれど、時間の融通はたっぷり利く。

「じゃあ、お願いできますか」

 【風の骨】が丁重に言い、マルゴットは微笑んだ。「もちろんです!」

 車を用意してくると言い置いて、マルゴットは急いでその場を離れた。我ながらうきうきしていた。のんべんだらりと過ごす楽しみはこれで潰えたというのに、どうしてだろう、全く惜しいと思わなかった。


 日が暮れてから公園で落ち合った。そこでマルゴットは、少しだけ驚いた。
 行ったときにはふたりだったのに、今は三人いる。

 新たに加わった少女はあまりにも――あまりにも、無惨な格好だった。
 顔も髪も拭いたようだが、汚れを落としきれていない。その汚れは泥と埃と、おそらく血だ。鉄の匂いが漂っている。また上着を羽織っているが、裸足だし、俯いて所在なさげにしている。どう見ても犯罪に巻き込まれた被害者の風情だ。

 さらにマリアラ=ラクエル・マヌエルは、見まちがえようもなく焦げていた。
 マルゴットは思わず、彼女をまじまじと見つめてしまった。こうして顔を合わせるのは実は初めてなのだが、写真も見たし、遠目にも見ていた。顔立ちは平凡だが、髪は豊かで、色もつやも申し分ない、明らかな彼女の美点だった。エスメラルダで伝統的な髪型に、長く伸ばした髪をひとつにまとめ、途中を綺麗な模様の布で包むというものがある。あれを好んでいた理由がよくわかる。髪が豊かで艶がないと、あの髪型は全く映えない。逃亡生活のために髪を切ったとき、どんなに残念だっただろうと思ったほどだ。

 それが今は、さらに焦げてしまっていた。肩までの髪を三つ編みにしているが、かなり量が減っているのがわかる。ところどころがちりちりと縮れていて、顔立ちがよくよく見れば可愛らしいだけに余計に無残だ。

「いったい何があったんです?」

 訊ねると彼女は、苦笑した。

「ちょっと行き違いがあって」

 ……それで?
 その先を待ったが、彼女もどう説明していいかわからないらしい。行き違いがあって焦がされるなんて、いったい何があったのだろう。
 何というトラブル続きなのか。マルゴットは感心し、次いで、苛立った。女の子を焦がすなんて、どんな理由があろうと言語道断だ。


「いいわ。まずは、うちへいらっしゃい。【魔女ビル】に行くのは後回しにして、とにかくその髪をどうにかしなくちゃ」
「どうにか、なりますか?」

 マリアラが不安そうに訊ね、マルゴットは少し考える。

「三つ編みをほどいてみないと、ちょっとわかりませんけれどね。だいぶ切らなきゃいけないかもしれないわ」
「……やっぱり……」

 マリアラがしょぼんと肩を落とし、マルゴットは頷いた。その気持ちはよくわかる。マルゴットは自分の髪が自慢だった。肌を作るのと同じくらい、髪の艶と長さを保つのに時間とお金を注いでいる。それが焦がされてしまうなんて、全く、考えるだけでぞっとする。

「これからどこへ行くにせよ、もう少し、変装したほうが動きやすいでしょう。髪を染めてもいいんじゃないかと思うの。縮れちゃった毛先を切って黒く染めたら、だいぶ印象が変わるし、焦げも目立たなくなるはずよ。大丈夫、ほんの数ヶ月の辛抱です。見た感じ、毛根は焼けてないわ。毛根が焼けてると二度と生えてこないけど、」

「!」

 とマリアラが硬直し、マルゴットはしみじみと頷く。年頃の少女にとって、全く、危ないところだったと言わざるを得ない。

「大丈夫よ、あなたのは生えてくるから。また伸ばせばいいわ。その間、短い髪型を楽しんだらいいのよ。私が似合うようにしてあげます」
「あ、ありがとう、ございます!」

 すがるような目で見られて、マルゴットは微笑んだ。王太子の求婚を蹴ったことで、この子には悪い印象を抱いていたが、こうして話してみるとなかなか可愛い子のようだ。

 三人を車に乗せて、マルゴットはまず自分の部屋に向かった。王太子の秘書という仕事柄、セキュリティに気を配ったマンションに住んでいる。【魔女ビル】やミランダの家に案内するよりは安全だろう。ちょうどハウスキーパーが入ったばかりだし。

 それにマルゴットが彼らに関わる口実にもなるわけだ――

 そんなことを考えながら一度ドラッグストアに寄った。いろいろと買い込んでから、マルゴットは家に向かった。
 【風の骨】を見つけたのがお酒を飲む前でよかった、と、しみじみ思っていた。

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