「助けてえ……」
マリアラがかがみ込もうとした時には、デクターがすぐそばに来ていた。あっという間にロープを切った。「おまち、ください」掠れた声がそう言った。シゲタはすでに地面にくずおれていた。せい、せい、と肺が鳴った。呼吸が苦しそうだ。
治療を。そう思った。優先順位で言えば、レイルナートよりもシゲタのほうがずっと先だ。このまま放っておいたら命取りになりかねないし、毒抜きは時間がかかる。
倒れたシゲタを、二人の若者が支えている。マリアラがシゲタに近づくと、若者たちは目を伏せた。敵意はなさそうだが、怖がられているらしい。
シゲタはとても辛そうだった。当たり前だ。毒を含んだ魔物の爪で引っかかれただけでも立っていられなくなるのが普通なのだ。さっきまで立って普通に話していたのが、今さら異様に思える。
「エルカテルミナ。魔物を……使ったのは……私の独断です、どうか……他のものには……」
シゲタが喘ぐように言い、マリアラは頷いた。この島の人たちにとっては、魔物を利用するということは恐ろしい罪であるらしい。
「知らなかっただけでしょう。あなた方を責める気はありません。さ、手を見せてください。治療をしないと」
「受けられません」シゲタは掠れた声で言い、どす黒く染まった左手を、しっかりと胸に抱え込んだ。「受けられません、到底……」
デクターがこちらに来た。彼の腕にはまだ金属の、竜の顎のようなあの機械が絡みついていた。「毒抜きする?」世間話のように彼はそう言い、マリアラはまたシゲタを見た。シゲタは首を振る。
「受けられ、ません」
「でも、このままでは死んでしまいます」
それも、全身を〈毒〉が這い回る恐ろしい不快感を味わいつつの、長い時間をかけての死だ。
けれど無理強いすることはできない。治療を受けるかどうか判断するのは本人の権利であり、無理やり治してしまうことはエスメラルダで定められた倫理規定に反する行為だ。シゲタは微笑み、「これが報いでございます」と掠れた声で言った。
「ですが……悔いてはおりませぬ……あの外道の嘘が……暴かれたのですから」
シゲタの声はみるみる弱くなっていく。マリアラは焦燥感に苛まれ、シゲタの左手をそっと取った。どす黒く染まったその腕は、まだ無事な右手に比べて顕著に太い。腫れている。侵入した〈毒〉に抗おうと、体が炎症反応を起こしているのだ。
「抜かないと」
「お構いくださいますな……」
「あッ」
誰かが鋭い声を上げた。悲鳴が上がった。「こいつ――!」「いたい、やめて!」レイルナートの声だ。そろそろと逃げようとしていたレイルナートを、近くにいた男たちが取り押さえている。レイルナートが険のある声で叫んでいる。
「私を誰だと思っている、よくもこんな――こんな――!」
「乱暴をするな」
デクターが声をかけ、レイルナートを押さえつけていた男たちは恐るように手を離した。レイルナートは跳ね起きて、男たちから距離を取り、薄い肌着をかき合わせた。ひどい姿だった。痛々しい。黒い髪がざんばらに顔にかかっていて、その陰から覗く瞳が光っている。
「お戻り……ください」
シゲタが掠れた声でそう言った。とても苦しそうだった。
「来られる時は……船をお使いではありません……でしたね……。その道を通って、どうか、お早く……」
「行こう」
デクターがいう。マリアラは迷った。患者をこのままにしていくなんて到底できそうもない。
「お行きください。この上治療を受けては……ルファルファの御許へ参れませぬ……」
「行くよ」
デクターはそう言い、マリアラの腕を引いた。
マリアラは立ち上がり、よろけた。シゲタはただ騙された? だけだし、『子供が一人しか残っていない』と言っていたことを思い出すまでもなく、長がここの人たちを虐げていたのは明らかだ。なぜこの人が治療を拒むのか。このまま死んでいこうというのか。治療を受けたら神のもとへいけないという理屈もよくわからない。
デクターはマリアラをじっと見て、少し顔をゆがめた。何か苦いものを我慢して飲み込んだような顔だった。
そして低い声で言った。
「あのね、……気の毒だけど。今、魔力が使えないんじゃなかったの」
「……あ……」
そうだった。
マリアラはゾッとした。そうだ、どうして忘れていたのだろう。
魔物と向き合ってからずっと自分の内にあった不思議な高揚感がすっと醒め、マリアラは、自分が役立たずであることを思い出した。今の自分は、小さく縮めた靴を元に戻すことさえできない体たらくなのだ。
シゲタが助けてくれと必死で頼んだとしても、今の自分には、どうしてあげることもできない。
――でもそれならさっき、炎の中からコインを使って逃げられたのはどうしてだろう?
マリアラがそう思った時、「あの、どうか」か細い少女の声が聞こえた。
「私を、お連れください」
レイルナートの声だった。
「……」
シゲタが何か、かすかな声で言った。でもマリアラの耳に届くほどの力がもはやなかった。そのかすかな声をかき消すように、レイルナートは続けた。
「私は〈神託〉の力を持っています。……父は嘘をついたけど、私の力は嘘じゃないわ。エルカテルミナを騙ったのは申し訳ないと思うけれど、騙ったのは私じゃない。私は利用されただけです。いかづちよ、どうか私をお連れください。必ずお役に立ちます」
「……」
デクターは何も言わない。もしここにレイルナートを置いて行ったら、と、マリアラは考えた。レイルナートはきっと殺されてしまう。この島に、彼女の味方は一人もいない。船も出せない。逃げ場もない。〈出入口〉を開けられるのはデクターだけだ。
デクターは迷っている。レイルナートは必死で言った。
「エスティエルティナの在処を、ずっと昔、描いたことがあるんです」
「……」
デクターが反応した。レイルナートが言い募る。
「父さん……父が私を、エルカテルミナだと吹聴する理由になった絵です。私が三つの時に描いたんですって。そ、その、その――エスティエルティナを見つけないと、困る。でしょう?」
デクターは淡々と答えた。
「エスティエルティナ自体のありかはわかってるよ。わざわざ書いてもらうまでもない」
「で、も……」レイルナートはちらりと島民たちの方へ視線を走らせた。「今、誰を選んでいるのかはわからないはずだわ」
「エスティエルティナを守っている人々に、誰かを選んだら教えてくれって頼んである。まだ連絡が来ないから、誰も選んでいないはずだ」
「遠くから連絡が来る間に、選ばれた人間がどこへ移動するかわからないわ。手掛かりは多い方がいい、そうでしょう……?」
デクターはマリアラを振り返った。
「これ以上は時間の無駄だ。行こう」
「私が死んだら〈水鏡〉は別の人間に移るのよ」
デクターがまたレイルナートを見た。レイルナートは真剣だった。必死で言葉を継いだ。
「だって必要な力なんだもの。またこの島の誰かに現れるのか、全然違うところの人に顕現するのか知らないけど、タイムラグはあるはずよ。あなたには十分な時間があるんでしょうけど……今代のエルカテルミナが生きてる間に顕現するといいわね」
「……しょうがないな……」
デクターはうんざりしたようにレイルナートに向き直った。
「条件がある。俺かマリアラが望む時、望むとおりに神託の力を使うこと。他の誰に依頼、または強要されても、その力を使わない。誓える?」
「もちろん」
レイルナートは即答した。デクターはもう一つため息をつく。
「神託以外の絵も、マリアラが望む限り何枚でも描く?」
「もちろん!」レイルナートは高らかに言った。「それがやりたかったの。――それがやりたかったの!」
「俺は慈善事業をしたいわけじゃないから、用が済んだらあんたを養う気はないよ。言葉も通じない場所で、自力で生活しなきゃならないんだ。結構大変だと思うけど」
「いいわ。ここに比べりゃどこだってマシよ」
レイルナートは頷き、どうやら彼女が同行することになりそうで、マリアラはホッとした。
治療もできず、自分の身を自分で養うこともできない今の状態で、レイルナートを助けてほしいと頼むことはできなかった。
でもシゲタを見捨てなければならない今の状況で、レイルナートまで見殺しにすることになるなんて、考えただけでも恐ろしかった。この島に彼女を置いて行ったら、彼女は絶対に殺されてしまうだろう。それも、とても酷いやり方で。
レイルナートのことは好きになれそうもなかったけれど、それとこれとは話が別だ。
デクターがレイルナートを促し、レイルナートが先に立って歩き出す。マリアラは最後にシゲタを見た。彼はもう目を開けることもしなかった。島民たちもみな項垂れて、黙っていた。行手を阻むことも、行くなと止めることもなく、ただ恐れるように、マリアラが動き出すのを待っている。
マリアラは悲しかった。足が鉛のように重かった。リーザのことも、シゲタのことも、虐げられた島の人たちのことも。マリアラが受け止めるにはあまりに重く、自分が何を望んでいて、どうしたいのかもわからない。ただ現実の重さに、打ちひしがれてしまいそうだ。
「あんまり考えすぎないで。……頼むよ」
デクターが振り返ってそう言った。頼むよ――その言い方のあまりの切実さに、マリアラは、よほどに自分が落ち込んで見えるのだろうと気づいた。不甲斐ない。この上、デクターに心配までかけてしまうだなんて。
「あ、違うの。ごめん、ちょっと、疲れちゃって……」
「そうだよな、いろいろありすぎたし。あっちに着いたら、どこかでゆっくり休まないとね」
デクターの言い方はとても優しく、マリアラはますます哀しみを感じる。
わたしは休めるのだろうと、マリアラは思う。
でもデクターは、休めるのだろうか。
この人は、千年ずっと頑張ってきたデクターは、ビアンカとの決定的な決裂を迎えてから、心安らいだことがあるのだろうか。
どうしてわたしは、こんなに子供なんだろう。〈出入口〉に向かうデクターの背を追いながら、マリアラはそう思った。もっと強く、もっと優しくなれればいいのに。
そうしてデクターとマリアラは、レイルナートを連れて、その島を後にした。

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