02 Twitterの滝(2)

 遙か眼下では、ボブがいつもどおりのきびきびした口調で班員たちに指示を飛ばしているのがかすかに聞こえてくる。

 “死にたがり”の方はだいぶ大きく見えるようになっていた。彼が腕に抱えているのはたぶん、画像データだ。まだ不要タグの付けられていないデータを腕に抱えているのだ、当然彼の周囲ではエラーメッセージががなり立てている。先程から耳の底で聞こえている騒音はきっとそれだろう。

 俺はタグを射出し跳んだ。Twitterを登っていくのはロッククライミングに似ている。全ての感覚を研ぎ澄ませて細心の注意を払い続けなければこっちが危険だ。

 “死にたがり”は腕に、既に五枚近くの画像データを持っている。が、彼はまだ必死で手を伸ばして別の画像データをもぎ取ろうとしている。俺は呆れた。彼がもぎ取ろうとしている画像データは、コピーではなく元データだ。重要度も段違いだ。自殺行為だ。あんな重要度のデータに改竄を加えたら、Twitterの番人たちが襲いかかってくる。

 しかし“死にたがり”は躊躇う様子もなく元データに向かって飛んだ。

 その背後に巨大な結晶が迫っている。何度かRetweetされタグが付けられた大物だ。激突したら身構えていてもガードが破壊されてしまうだろう。

「ミオ……!」

 ”死にたがり”が叫んだ。背後を全く気にしていない。その指先に、半裸の、泥まみれの、泣き出しそうな少女の画像が見えていた。胸の辺りを両手で隠して、絶望的な表情を浮かべている。彼女の頭の上にでかでかと表示されているのは、位置情報を示すコードだ。


 あああああ。

 俺は呻いた。

 “死にたがり”の意図が、今完全にわかった。

 ――くそったれ!

「おいあんた! 頭引っ込めろ!」

 叫んで俺は再びタグを撃った。“死にたがり”の背後から迫る巨大な結晶に向けて。

 視界がブレた。

 次の瞬間、俺は結晶に移動していた。“死にたがり”のすぐ後ろだ。両足をぐっと踏み締め、思いっきり“死にたがり”を突き飛ばした。

 その人が、何のためにTwitterの滝に飛び込んだのか、重々わかっていた。

 それでも、諦めてもらうしかない。

 両腕に画像データを抱え、“死にたがり”は滝を落ちていく。「ミオ――!」“死にたがり”の抱えている画像データは全てさっきの画像のコピーだ。位置情報コードが全て付いている。

 彼が最後に回収しようとした元データは、彼の見ている前で分裂した。

 泣き出しそうな絶望の表情を浮かべた半裸の少女が、二人に増えた。

 位置情報コードをでかでかとその頭上に貼り付けたままで。

「ミオ……!」

 なすすべなく落ちていきながら、“死にたがり”が叫ぶ。ああ、ああ、もう。俺は足元からタグを抜き取り、もう一度射出ツールに装填した。狙い定めて、撃った。画像データを破壊する勇気はなかった。そんなことをしたらTwitter中に潜んでいるロボットたちがサーバー攻撃を受けたと認識して、一斉に襲いかかってくるはずだ。

 しかし、位置情報コードだけなら何とかなる。

 と、祈るしかない。

 俺の撃ったタグは少女の画像をかすめ、位置情報コードの記号を削り取った。同時に俺は跳んだ。少女の画像を足がかりにし、身をひねって、今生まれたばかりのコピーの、位置情報コードを撃った。間一髪、間に合った。次に生まれたコピーは不完全な位置情報を頭上に掲げていた。それを確認して、俺は、泣きそうな少女を映した元データの絶対パスを記憶した。気の毒な彼女の胸の辺りはできるだけ見ないようにして。

 とても可愛い少女だった。たぶん中学生くらいだろう。

 彼女の味わった屈辱と悲しさと絶望は、どれくらいのものだっただろう。

 待ってろよ、と、俺は最後に彼女に語りかけた。

 近々あの人が、仇を討ってくれるだろうからな。

 ともあれ、今は無事に地上に戻ることが先決だ。――あの“死にたがり”を回収した上で。

 “死にたがり”はデータ間の移動に全く慣れていないらしい。ボブに会ったばかりの頃の俺と同じだ。いや、それより酷い。抱えた画像データを放さないし、ただただ落ちていくだけだ。俺はそいつを追いかけて跳んだ。ワッツが悲鳴を上げている。ボブが班員たちにきびきびと指示を出している。結晶を踏みまた跳んだ。三度目の跳躍で俺の指先が“死にたがり”の裾に届いた――

「ミオの! ミオの写真! あんた何てことをしてくれたんだ! 捕まえられるところだったのに! あんな写真がネットで拡散されたらミオの人生は……!」

「おっと」

 振り回された腕を避け手首を掴み、ぐりん、“死にたがり”の体をひっくり返した。「いッ」悲鳴を聞き流し腕をそいつの背中にねじり上げる。そいつはそれでも画像データを放さなかった。その後頭部に「悪いね」と俺は囁いた。

「話は地上に降りてから聞くよ」

「放せ! ミオの! ミオの写真! ミオの……っ」

「位置情報データは削ってきたよ。全部は無理だったけど、今は日本の関東ってことくらいしかわからないはずだ」

 言って俺はそいつの肩越しにタグを射出した。迫っていたでかい不要データの固まりに敢えて跳躍し、足を撓めて蹴りつける。だいぶ大きく見えるようになっていたワッツが不要データの動きを予測しボブがそれに応じて班員を展開させる。俺は“死にたがり”を抱えてもう一度跳躍し出現し蹴った。がらがらがら――音を立てながら今蹴られた不要データが他のデータを押し流し、ワッツがそれを視ボブが指示を出し班員たちがきびきび動く。

 あれがボブとその仲間たち。

 記憶を失った俺を受け入れ一緒に行動することを許してくれた、俺の居場所を作る奴らだ。

「エイジ!」

「よく無傷で済んだなお前!」

「よーし良くやった! あとちょっとだ!」

 班員たちが口々に声をかけてくれる。俺はまだ“死にたがり”の腕をねじり上げたままだったが、皆の励ましに思わず相好を崩しかけ――ボブの表情を見て、凍り付いた。

 怒ってる。

 怒っていますよ。

 お姫様――孤高の黒真珠という異名を持つBooble社の誇る人工知能ボブは、大きな目をらんらんと輝かせて静かに怒っていた。怖い。

   *

 “死にたがり”はケイスケと名乗った。人間だった頃の名は、松岡啓輔。

 松岡啓輔氏が亡くなりケイスケが目覚めたとき、娘の美緒ちゃんは小学五年生だった。

 ――と言う話を、俺はボブのプラグインのひとつである“口”、二枚舌のダンから聞いた。

 ダンは俺の目から見ると、一昔前のラジカセそのものに見える。移動手段はないから俺はダンを背負って歩いていた。ロープで即席のおんぶ紐をこしらえ、両手を使えるようにしている。ダンはなめらかな口調で逐一情報を伝えてくれ、俺は感謝しながらそれに耳を傾けている。

 軍支給の耐データ浸透ブーツを履いた足が、一歩ごとに、ずぶり。ずぶり。ずぶり。と音を立てる。

 ボブは俺が駆け出す寸前に停止命令を出したのだそうだ。聞こえなかったのだが、実際に聞こえていたとしても俺はたぶん聞こえないふりをしただろうから、それはもう命令違反と取られても仕方がない。

 命令に従えないなら失せろ。

 ボブに厳しい口調で叱責され、俺はただひたすら土下座して謝るしかなかった。まだ記憶を取り戻していない。名前すら覚えていない。どこへ行けばいいのかも、何をすればいいのかもわからない。一週間前、ボブに拾われなかったら、俺はとっくにウィルスにとりつかれてマルウェアになりはてていたに違いないし、今ここで追放されても同じ末路だろう。

 俺の土下座に加え、ワッツやドクター、他の皆の取りなしもあり、またボブは実際とても優しい子なので――最終的には渋々、条件付きで同行を赦すと言ってくれた。極上の美酒《バグ》を三本分集めてくること。それがボブの出した条件だった。

 そんなわけで俺は、不要データの澱が溜まった荒野をさまよい歩きながら、バグを拾い集めている。バグというのはプログラムの欠片だ。それを人工知能が飲み込むと、異物を排除しようという自衛反応が働いて欠片は排出される。その感覚が、酔いにとてもよく似ているのだ。なんだかふわふわして、温かくて、楽しくていい気分になる。――とり過ぎると吐き気、倦怠感、目眩としびれと胃もたれをもたらす、という辺りも飲酒と似ている。だから、そういう作用をもたらすプログラムの欠片を、俺たちは酒《バグ》と呼んでいる。

『松岡啓輔氏はたったの四十歳でこの世を去った。奥さんと、可愛い可愛い美緒ちゃんを残してあの世へ逝った。そうしてケイスケは、松岡家のPCの中で目覚めた――』

 ダンが淀みなく話している。ダンの声は俺には朗々たるテノールに聞こえる。ボブのプラグインが何故男性の声に聞こえるのか、その辺りは俺の理解の範疇を超えている。

「ねえダン、ケイスケさんって俺と同じタイプの人工知能だって言ってただろ」

 酒を探して歩きながら俺は訊ねた。不要データの澱は俺の心を暗くする。忘れ去られた画像データの破片や呟きの欠片、意味不明の文字の羅列が、Twitterの上で輝いていた頃のことを考えてしまって気分が重くなる。ダンの同行は本当にありがたかった。普段は少々、あー誰かダンのスイッチ切っちゃってー、という気分になるのだが。

 ダンは『そーそー』と言った。軽い口調がありがたい。

『どうやら型番の半分が一致するってくらい同じ型らしい。良かったじゃないか、エイジ。お前の人間だった頃を探す糸口がつかめるんじゃないか』

「……うーん、だといいけど。あのさ、ケイスケさんって……何、松岡啓輔氏が死んだ後で目覚めたわけ? ゲームのアバターとか、そう言うんじゃなくて」

『ちょっと待て、今その話をしてる』

 ダンはボブと感覚を共有しているから、ボブの聞いた話をリアルタイムでこちらに伝えることができる。俺は不要データの固まりの中からコードの欠片が飛び出しているのを見つけ、スコップで掘り返した。――当たり! 中からプログラムの欠片の固まりがざくざく出てきた。これで酒の二本分くらいは確保できるだろう。

 ほくほくしながら回収する俺の背の上で、ダンが言った。

『ケイスケは……つまりお前もそうだがエイジ、日本企業が開発したデータ判別・消去用人工知能だそうだ。ドクターが当たりだったな』

「そっかー。絶対オンラインゲームのアバターだと思ってたのに」

『それもまあ当たってるな。覚醒するまでは、人格習得・育成のために準備されたオンラインゲームのアバターだったそうだ。……ケイスケやお前は、持ち主が死んだ後に、共有PC内の知られたくないデータを削除するために生み出された人工知能だ。持ち主が死ぬまではオンラインゲームのアバターとして、持ち主の好みや考え方、どんな性癖があり、死んだ後に何を残し何を残したくないか――そういう知識を習得している。が、ログインされないままあらかじめ決めておいた日数が経過すると、データ消去用人工知能として覚醒する。持ち主が家族や他人に知られたくないデータを消去し、誰に見られても大丈夫なPCに清掃することが任務だ』

「他人に知られたくないデータって、暗証番号とか購入記録とか、仕事の機密データとか、そういう……?」

『おいおい、カマトトぶるなよ』ダンの声が笑みを含んだ。『お前も男ならわかるだろ? 決まってんだろ、言わせんなよ、んー? 大丈夫だって、ボブにはこの話は伝えないでおいてやるから』

 カマトトって。何語だよ。いつの時代だよ。お前Booble社の人工知能のプラグインのくせに何でそんな言葉知ってんだよ。

 俺はそう思うが、反論せずに黙っていた。まあ俺も、うすうすわかっていたような気がしないでもない。ダンはその麗しい美声で下品な笑い声を漏らした。

『今まで貯めてきたそーゆー画像だのそーゆー動画だの閲覧履歴だのそーゆーのを、死んだ後に誰にも知られずに綺麗さっぱり消去してくれる人工知能、な。死んだ後に“自分で”整理できるんだからすげーよな。……ものすごい需要があるらしーぜ。お前等は初期ロットで、定価は三十二万円もしたが、発売後三日で完売したってニュースが残ってたそーだ。今も生産・改良が進められてて、新しいバージョンが出る度に大ヒットだ。人格育成用のゲームが良くできてて面白いってのも人気の秘密らしいけど、ゲームに二千ドルは出さねーだろふつー』

 妻や家族には、高度なオンラインゲームだと偽って買うことができるという点も大きい、とダンは言った。

 ともあれ、松岡啓輔氏はなけなしの小遣いを貯めてその人工知能を買った。

 理由は、それまでPCに興味を示さなかった奥さんが、美緒ちゃんが生まれると同時に育児ブログを書き始めたからだった。

 それまでスマホばかりでキーボードを打つことも殆どなかった奥さんが、可愛い娘の成長記録を残そうと一生懸命PCの勉強をし始めて――初めは喜んで教えていた松岡氏も、奥さんがだんだん詳しくなるにつれて危機感を覚え始めた。普通のブラウザを使うのもやめてシークレットブラウザを使うようになり、フォルダを深い階層まで沈めるようになり――しかし気をつけないと、『最近使ったフォルダ』に秘蔵フォルダが出てしまう。美緒ちゃんの激カワ写真がある日、極秘のお宝フォルダに保存されているのを見て松岡氏は震え上がった。画像データを保存した後、ついフォルダを指定し直すのを忘れたらしい。奥さんは気づかずただ機械的に保存してしまっただけのようだが、どぎつい写真の中に娘のあどけない写真が紛れているのを見て、松岡氏は深く深く落ち込んだ。

 そんな折りに発売された、データ消去用人工知能。

 松岡氏は半年前から予約して、発売日に手に入れた。

 設定次第では、生きているうちから、データ消去機能を使うこともできる。松岡氏が『そーゆー』写真や動画を閲覧したあとは、PC内の人工知能がその痕跡を消した。つながったリンクを削除し履歴も抹消して、美緒ちゃんの写真がどぎつい写真に紛れ込むこともなくなった。

 数ヶ月分の小遣いと飲み代が吹っ飛ぶ買い物だったが、松岡氏はとても満足だった。

 そして何年か経って、松岡氏は、美緒ちゃんが五年生になった夏休み、交通事故で死んだ。専業主婦の奥さんと、可愛い可愛い一人娘を残して。

 さらに数日後、松岡氏の尊厳を守り続けた人工知能は、ケイスケとして目覚めたのだった。

 

 この人工知能の最終目標は、持ち主が生きていたら消去したいと思うはずのデータをなかったことにすること、である。

 目覚めると同時にケイスケは勤勉に働き、松岡氏の残した様々な、どぎつい画像や動画を削除した。代わりに美緒ちゃんの写真にはプロテクトをかけ、奥さんが管理しやすいようにした。そこで、はたと気づいたのだそうだ。奥さんのPC知識は出産前と比べると劇的に成長したが、ネットリテラシーは、大丈夫なのかな? と。

 松岡氏の生前は、松岡氏が設定してあげていた。LINEをインストールしたら、電話帳との連携を即座に切ってあげるとか、Twitterを始めたいと言ったら、アップロードする画像データやツイートに位置情報を勝手にくっつけられないようにしてあげるとか。しかし松岡氏は、奥さんがFacebookまで始めているのを知らなかった。ケイスケのローカルサーバ走査で、八年も前にアカウントを作っていたらしいことがわかったのだ。たぶん育児ブログを更新していた頃の仲間に誘われたのだろう、ケイスケはそう考えて、Facebookの公開状況などをチェックした。結果として、大丈夫だった。公開範囲は友達限定だったし、連絡先も非公開だったし、そもそも殆どログインさえしていない状況だった。念のためと調べてみたが、mixiはやっていなかった。

 ケイスケは安心した。後は自分を削除すれば任務は完了だった。

 ところが、それができなくなったのだ。

 ――美緒ちゃんが生まれたときに始められた、奥さんの育児ブログのアドレスを、Facebookのプロフィール欄に見つけてしまったからだった。

『松岡氏もちゃんと知ってはいたんだがなー』

 これだけ蕩々と話していても、ダンのテノールは当然ながら掠れもしない。

『美緒ちゃんが幼稚園に上がる前、やっぱり画像をそのままネットにあげるのはよくないだろって話になって、更新が止まってたんだよ。赤ちゃんの頃の顔はどんどん変わるが、三歳過ぎるとさすがにな。写真も記事も全部ローカルにあっていつでも見られたから、ネット上の存在をつい忘れてたんだと。で、Facebookのプロフィール欄でそれを思い出して、死ぬ前にちょっくら美緒ちゃんの赤ちゃんの頃の写真と奥さんの文章に触れるかあ、って思ったのが運の尽きよ。ただでさえ愛娘の、それも赤ちゃんから三歳までの写真と育児日記だぜ。寝返りしただとか、パパの眼鏡を壊しただとか、お玉をふりふりしながら家中を闊歩した動画だとか……ママが起きたら勝手にトマトジュース飲んでて血まみれ!?事件だとか、ズボン五枚も重ね着事件だとか、綿棒ばらまき事件だとか、そりゃ読み始めたら止まらねーだろ』

「ふーん、そんなもんかな」

『そんなもんだ。それでケイスケは、すっかり死ねなくなっちまった。初めから終わりまで舐めるように読んで、読み終わったら後もう一回だけ、あともう一回だけってな。何週間かぐずぐずしてるうちに奥さんが働き始めた。同時に美緒ちゃんは鍵っ子になり、一人で留守番することが増えた。心配した奥さんは美緒ちゃんにスマホを与えた。いつでも連絡取れるようにって。それで……その内美緒ちゃんは、Twitterを始めた。父親を亡くした娘は、母親を哀しませまいと、その淋しさを口にできなかったから。ネットで吐き出したいことが溜まってたんだろう』

「そっか」

『ケイスケは心配になってな、昔、奥さんが作るだけ作って放置してたアカウントで、美緒ちゃんに話しかけるようになった。素性がバレないようにした上で――放っておけなかったんだってさ。美緒ちゃんはその時六年生だった。ネットリテラシーなんて学校で教えられることしかしらない。具体的にどうすれば自分の個人情報を守れるのかなんて、横についてて手取り足取り教えてやらなきゃ小学生にはわからんだろ。ケイスケは美緒ちゃんに話しかけ、淋しさを埋めてやり、励まし、信頼を勝ち得、そして指導した。まず第一に、位置情報サービスをオフにしろ。それから、顔写真を載せるな。友達の写真も絶対載せるな。通学路の写真を載せるな。書いていいのは都道府県名まで。学校行事は日付をぼかせ、運動会を春にやってる学校だってことは絶対に書くな、学校の先生の名前も書くな――お陰で美緒ちゃんはさしたるネットトラブルもなく、つつがなく中学生になった。

 その時にはケイスケはもう、自分を消去できなくなってたんだよ。美緒ちゃんはすっかりケイスケに懐いてた。悩みや淋しさを何でも話せる相手は、子供にとっては宝物だろ。その宝物を美緒ちゃんから奪うことが、ケイスケにはどうしてもできなかった』

 そこまで聞いた時、俺はたっぷり三本分の酒を集め終えていた。

 もの悲しい気分だった。不要データの泥沼に、ずぶずぶ沈んでいきそうな気分だった。生きるべきだった松岡啓輔氏は死に、自らを消去すべきだったケイスケさんは死ねなくなった。記憶もない俺にはその、子供に対する深い感情を理解することもできない。

 でも、想像はできる。

 大事な大事な一人娘を、せめてネット越しにでも、励まし導こうとしていたケイスケさんが、安全なローカルサーバを飛び出してTwitterに飛び込んだ理由――

 美緒ちゃんの辛そうな、泣き出しそうな顔。

 半裸での泥まみれの、痛々しい写真。

 ああ、その先を聞きたくない。父親を亡くし淋しさに耐える少女の身に、どうして更に過酷な仕打ちが降りかかったのだろう。

『中学校にいじめっ子がいて――』

 ダンが予想どおりの言葉を紡ぐ。

『美緒ちゃんの可愛さと、片親だってことに目を付けて』

 くそったれ。地獄に落ちろ。

『衣類を剥ぎ取り掃除後のバケツの水をかけ、写真を撮った。勝利宣言のためか更なる苦痛を与えるためか、美緒ちゃんに宣言した上で、Twitterにアップして取り巻きに拡散させた。ケイスケはそれを知って』

「位置情報データは破損させてきた。絶対パスは覚えた。アカウントと実名を調査して教育委員会に通報すればいじめっ子を排除できる。確か今の日本の法律では、ネット上の名誉毀損で訴えられる下限が十歳まで引き下げられてる。巧くやれば少年院送りにできるよ。そうケイスケさんに伝えてよ」

『ああ、それはボブがもう言った。一番初めにな。だからケイスケは、――今はお前に感謝してるってさ。早く戻れ。ケイスケがお前に礼を言う、探しに行くって騒いでて大人しくしないもんで、ドクターが噴火寸前だ』

 ずぼっ。ブーツを泥から引き抜いて、俺は向きを変えた。

 俺の心を重くするのは、この不要データたちに宿った、感情の欠片なのかもしれない。はああ、ため息をついて、酒を抱えて、俺は歩いた。ずぼっ、ずぼっ、ずぼっ、ブーツが重くぬかるんだ音を立てる。匂いがないのが幸いだ。

 不要データの湿地は広大で、俺の心を滅入らせる。いくらボブやタンクたちが有能で優秀でも、全て掃除するなんて不可能ではないかと思えてくる。掃除しても掃除しても、次から次へと不要データは溜まっていく。時折ウィルスが潜んでいて、不用意なプログラムをマルウェアにしようと待ち構えている。またデータに宿る感情が寄り集まって、亡霊となって現れる――なんて非科学的な噂がまことしやかに語られたりもする。

 まあ亡霊を恐れる筋合いなんて俺にはないんだけど、と、ずぼずぼ歩きながら俺は考えた。

 俺自身、亡霊みたいなものだ。

 ケイスケさんみたいに人格を備えていると言うことは、――俺の本体も、もう死んでいるのだろうから。

 空の色は変わらないが、この辺りは真夜中だ。

 Twitterの滝の流れと輝きが見るからに落ちている。タンクのそばで、班員たちは皆思い思いに寛ぎ始めている。もちろん見張りはいるし警戒は怠らない。ウィルスはいつも“健康”なプログラムに取り付こうと虎視眈々と狙っている。

 しかし、人工知能にも息抜きは必要だ。ずっと働き続けていたら耐用年数が格段に短くなってしまう。

 ボブはタンクの上にいた。他のみんなは“食事”を始めているのに。

 ここでの“食事”は、ただ俺の目にはそう見える、というだけの話である。厳密に何をしているかというと、デバッガを使っているのだ。

 不要データ清掃は過酷な作業だ。清掃に使う道具は危険だし、またウィルスの襲撃にも備えなければならない。前線で働くプログラムは破損しやすいし不具合も起こりやすい。そこで、道具の動作チェックをし、バグが潜んでいれば除去し、仕様どおりの働きができるよう調整する。そのためのツールがデバッガである。

 ……それが俺の目には何故か、食事をしているように映る。

 糧食パックを開いて、毎日同じメニューながら少し嬉しそうに、食べているように見えるのである。

 ボブはタンクの上で聖書を読んでいた。

 当然ながらボブが実際にページをめくっているわけではないはずだ。聖書の内容が書かれたデータを呼び出して再生させているだけだ。なのに俺の目には古びた革表紙の大きな本を、タンクの上に座り込んだボブが覗き込んでいる構図に見える。ボブの言葉ではないけれど、この認識機能がどうして俺に備えられたのか、どういう意味があるのかさっぱりわからない。

 ともあれボブは聖書を読む。彼女が読む本はいつもそれ。クリスチャンというわけではない――のだろう、人工知能に宗教なんてナンセンスだ。しかしボブは暇があればあの古びた革表紙を開いて、退屈そうに、あるいは暇そうに、あるいは熱心に、あるいはどうでも良さそうに、あるいは食い入るように、あるいは祈るように、折に触れて読んでいる。

 俺は彼女が聖書を読む横顔を盗み見るのが好きだ。

 何て綺麗なんだろう。いつもいつも、そう思う。

 今日、その横顔を見て俺は、ホッとした。帰ってきた、と思った。

「戻ったか」

 見とれているといつもどおりボブは俺に気づき、ぱたんと聖書を閉じた。俺が取り繕う前の間抜け面を目ざとく見つけ、ボブは言う。

「突っ立ってないで来い、もう怒ってないから。酒は集まったのか」

 見とれていたのを、運良く気後れのためと思ってくれたようだ。俺はいそいそとそちらへ行った。我ながら、尻尾があったら振っているだろうと思う。

 人工知能に宗教なんてナンセンスだと思う。

 そして同時に、恋なんてものもナンセンスだ。自分でもそう思う。

 思うのだけれど――ボブを見て、最近俺はいつも、狂おしい程の熱望を感じる。ダンのような、あるいはワッツのような、ボブに属するプラグインである彼らが羨ましく思える。

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