仮魔女と友人(4)

 【壁】の近くまで近づいたのは、三年前の環境学実習以来のことだ。
 雪山の頂上を少し越えた辺りに【壁】はある。なだらかに続いていた深緑のじゅうたんが、そこで唐突に断ち切られていた。向こう側は草原だ。どこまでもどこまでも、青々と茂った豊かな牧草地帯が続いている。風が吹くたびに揺れるその地は、まるで楽園のように見えた。あそこに裸足で駆け出して行ったら、どんなに気持ちがいいだろう。いかにも柔らかそうな草。ごろごろ転がって青空を見上げたら、どんなに素敵だろう。

 目に見えるのに、手で触れそうなのに、あそこに行くには大変な手間とお金と時間がかかる。その事実が、不思議だ。
 背後から、マリアラが言った。

「リン、気を付けてね。触ったら、危ないよ」
「……そ、だ、ね」

 リンは一歩下がった。【壁】に触れてはいけない。【壁】は空間の歪みが寄り集まって固定されたものだ。触ったら最後、どこか別の場所にすっ飛ばされてしまう。出口がどこに通じているのか、判明している歪みはごく一握りだ。どこか遠くの国に飛ばされるならまだいい――マヌエルが助けに来てくれる――が、出口が宇宙空間や、大地の底や、火山の中や、海の底だったりしたら?
 【壁】を通った瞬間に、即死だ。

 と。
 はるか向こうに、ちら、と動いたものがいる。
 リンは息を止めた。漆黒の影が、遥かかなたで動いた。思わず【壁】に顔を押し当てそうになったリンを、危ない所で止めてくれたのはミフだった。物言わぬ箒は柄でリンの肩に触れてリンを止めた後、すうっと動いて地面と水平になった。リンの腰の高さに。まるで、乗れ、とでも、言ってくれているかのように。

「え……ま、マリアラ」

 リンは慌て、マリアラを見た。彼女は少し離れた場所にいたが、リンの声に気づいて、ひょこっ、と木立から顔を出した。

「乗せてくれるって。高いとこから見た方が、良く見えるでしょ? ミフ、リンをお願いね。わたし、場所を探してくる」
「え、……えー!」

 マリアラは木立の中に戻って行った。何の場所を探すというのだろう? リンはミフを見た。先程と同じ場所で、辛抱強くリンを待っている。
 魔女の箒は、エスメラルダ国民みんなの憧れだ。
 それも、魔女なしで、乗せてもらえるだなんて――

「お、……お邪魔します」
『どうぞ』

 流暢な返事が聞こえてリンは、飛びのいた。またぎかけていた足が柄に引っ掛かって転びそうになった。マリアラと良く似た声が、平然と言う。

『気を付けて』
「え――えええ!? しゃべったあ!」
『会話の回路もあります。普段は、あまり利用しません』
「そ、そう、なの?」
『必要な時はマリアラが話しますから、必要ありません。今はマリアラが離れているので、意志疎通に不便でしょう。どうぞ、お乗りください』
「あ……ど、どうも……」

 リンはおずおずと穂に跨がった。と、ふわり、体が浮いた。急いで柄にしがみつくと、ミフの優しい声がする。

『怖いですか?』
「ぜっ、ぜんぜん!」

 それは本当のことだった。怖いわけじゃない。なんというか、――ぞくぞくするのだ。マリアラの背がないぶん、さっきより視界が遥かに広い。しずしずと上って行くにつれ、景色はどんどん開けていく。さっきちらりと見えた漆黒の影が、今やはっきりと見えてきた。
 ――魔物だ。

「わあ……っ」
『写真を撮りますか』
「と、撮る撮る、でもっ手っ、」
『私のカメラで撮って、ハウスに戻った時に現像してもいいですよ』
「わあそんな、そんなことまで! すみません!」
『お気遣いなく。マリアラのお友達は、私にとっても大事な人です』

 パシャ、と、どこからともなく音が響いた。

『落第になって国外追放になったら、マリアラが哀しみますから』
「……」

 いかにも魔法道具らしい、歯に衣着せぬ物言いだった。リンは気を取り直して、再び【壁】の向こうに目をやった。
 魔物はまだ、そこにいた。
 先程より近づいていた。魔物の体躯は、まるで、真夏の日差しに照りつけられひび割れた地面に空いた穴のように、黒かった。光を浴びても輝きそうもない、吸い込まれそうな漆黒だ。
 大きさは、牛くらいはあるだろう。体のそこここからうねうねとうごめく触手が生えている。開いた口から牙が覗いていた。その牙まで黒い。周囲すべてを蝕みそうな、禍々しい毒の色。
 ――【毒の世界】の、毒の色だ。

「もしあれが入ってきたら……大変だね」

 めまいを覚えて、リンは、ミフの柄に掴まり直した。大変、どころの騒ぎではない。大惨事だ。

『そうですね』

 ミフは軽く言った。丸っきり世間話の言い方だった。
 距離は近くても、あの魔物が【壁】を越えて入ってくることは絶対にない、と、分かっているからなのだろう。リンも分かっていた。魔物にも【壁】を越えることはできない。見えていても、あの魔物との距離は何千キロも離れているに等しいと、頭では分かっている。でも、魔物が、禍々しい毒を宿した存在が、ゆるゆると近づいてくるのを見ると、おののかずにはいられない。
 リンの不安が分かったのか、ミフは軽く言った。

『だいじょうぶ。マリアラはラクエルです。魔物の毒は効きません』

 ――そうだ。それも一因だ……

 リンは一瞬だけ、唇を噛み締めた。
 マリアラはラクエルだ。光を媒介に魔力を奮う、ごく一握りしかいない、特別な魔女だ。光がなければ魔力を使うことができないという制約の代わり、ラクエルには毒が――少なくとも他のマヌエルたちほどには――効かないのだ。だから【毒の世界】へ落ちた人を助けに行くこともできる。他のマヌエルは近づくことさえできないあの世界に。
 担当教官が孵化を嘆いたほどの優等生で。
 誰もが羨むマヌエルで。
 その上、エスメラルダ国内にも二十人程度しか存在しない、ごく特別な、ラクエルで――。

 ――あたしって、醜い。

 リンは顔を伏せた。さっき、マリアラに会えて嬉しかった、それは本当のことだ。リンの真実の一面だ。でももう一面で、確かにリンは、孵化した後のマリアラに会うのが嫌だった。孵化の直後、マリアラが一番辛かった時に、助けてあげなかったという負い目もあるが、なにより、確実にリンの心を蝕むものがあったのだ。

 嫉妬だ。

 同じ寮の、同じ専攻の、マリアラと特に親しかった三人の少女たちを、リンは一年前からずっと、嫌悪していた。醜いと、思っていた。孵化したくらいで、友達を阻害していいはずがない。孵化を迎えたのはマリアラのせいではないし、みんなで結託して無視するなんて、一番卑劣な裏切り行為だ。
 でも、リンも同じだ。リンも、マリアラがいきなり手に入れた、極上の幸運に嫉妬して、出せたはずの救いの手をしまい込んでいた。仲のいい友人たちから突然無視されるあの絶望と、その絶望の淵で差し伸べられる救いの手がどれほど貴重なものかを、ありがたいものかを、リンはちゃんと知っていたのに。
 わかっていたのに、見過ごしにした。

 ――あたしだって、あの子達と同じだ。

『アリエノールさん?』

 ミフに声をかけられ、リンは、咳払いをした。喉の奥に詰まった何かを飲み下そうと努力して、なんとか、成功した。

「……ちょっと、怖くなっちゃった」
『ああ。すみません、気が付かなくて』

 ミフは速やかに下降して、リンを地面に降ろした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました