グロウリア

 一週間が過ぎた。

 リクライニング式の寝椅子は柔らかく、ゆるやかなカーブを描いてマリアラの体をすっぽりと包んでいた。遺跡の塀に囲まれた中庭で、マリアラは日向ぼっこをしていた。とりあえず血は止まっていたが、頭と右足と肩が、まだ包帯に包まれている。

 治療の方法が、また思い出せなくなっていた。

 失われた血の補充もできず、ここに来てから、マリアラは日がな一日遺跡の中庭で日向ぼっこをしながらうつらうつらして過ごしている。

 反面、デクターは忙しそうだった。

 アリエディアの拠点でマリアラと再会し、その無事を確かめてほっとした後、デクターは精力的に働き始めた、ようだ。マリアラはうつらうつらしているので彼の行動がちっともわからない。アリエディアにいるのかどうかもわからない。興味もなくなっていた。この一週間、ほとんど話もしていない。

 血が足りないせいだと言い訳をして、ただただ日々を浪費している。あれほど読みたかった白ばらの本も今は読みたくなかった。レイルナートがどうなったのか、イクスがジレッドとレイルナートを仲間のように言っていたのはなぜなのか、それさえ問わなかった。グロウリアはマリアラがふさぎこんでいると言い、何くれとなく世話を焼いてくれるけれど、マリアラの自覚ではふさぎこんでいるのではなく、ケガをいいことに怠けているのだ。治療の方法を思い出せないというのも嘘かもしれないと自分で疑っている。だってジェムズはあんなに簡単に治せたのに、自分のケガが治せないなんて。

 放棄している。逃避している。怠惰を貪っている。

 それなのにグロウリアは優しい。その優しさをありがたいと思うことすら億劫なマリアラのために、グロウリアはかいがいしく食事を作り、温かな飲み物を作り、蒸しタオルを差し出してくれる。

 グロウリアはお母さんという言葉がしっくりと似合う、四十代半ばくらいの女性だった。

 デクターが当初話していた目的地――街の一番高い場所にあるアリエディア伯爵の遺跡――はやはり間違いではなかった。マリアラは今、つい一週間前まであんなに行きたかった、アリエディア伯爵の城の遺跡にいるのだ。けれどデクターの指示した時計台も嘘ではなかった。遺跡に入るには、時計台の案内人に地下道へ通してもらわなければならなかったのである。他の入り口はない。強いて言えば、塀を乗り越えて来るか、上から箒や他の乗り物で入るしかなく、グロウリアはそれができないようにちゃんと手を打ってある、と自信たっぷりに請けあった。中庭の上空には魔力による見えない網を張り巡らせてあって、許可なくそこを通り抜けると警報が鳴り同時に『痺れる』とグロウリアは説明した。

 でもマリアラを安心させようというグロウリアの心遣いも、正直なところマリアラの心を軽くしたとは言えない。心に蓋ができているとマリアラは自覚していた。申し訳ないことに――情けないことに――あの橋の上から落ちた日に、心も一緒に落として来てしまった、そんな気がしてならない。

「おっまたせー!」

 グロウリアが明るい声と共に登場した。甘い匂いがする。

「今日のお昼はフレンチトーストよ!」

 グロウリアは掲げた盆をひざに抱えるようにしてマリアラの斜め右に座り、

「はい、あーん♪」

 明るい笑顔でフォークに刺したひと口大のフレンチトーストをマリアラの前にさし出した。マリアラは素直に口を開ける。

「あー」
「おーお利口お利口、偉いわねえ~」

 グロウリアはマリアラの口の中にフレンチトーストをひとつ入れた。甘い。柔らかい。シナモンとバターの匂い。

「美味しい?」
「んー」

 それはよくわからない。乳脂肪と砂糖の味だ。

「おいしい」
「そ? それは良かったわ。たんとお食べ」

 グロウリアは優しかった。フレンチトーストは熱すぎない程度に冷まされ、端っこがカリカリで、中はとろんとした食感だ。多分口に入れて一番おいしいタイミングで持ってきてくれたのだ。マリアラは感謝したいと思った。見ず知らずの娘にここまで良くしてくれるグロウリアの優しさと、そうしたいとグロウリアに思わせるような関係を築いてきてくれたデクターと、その双方に。

「グロウリアさん。……いつもどうもありがとう。ごめんなさい」

 言うとグロウリアは優しく微笑った。

「お礼なら【風の骨】にね。あたしは、彼への恩を返しているだけよ」

 ――反社会的組織の幹部。

 吐き捨てるように言ったララの辛辣な評価が脳裏に閃いてマリアラは顔をしかめる。
 グロウリアはマリアラの様子には構わなかった。マリアラの背後に視線をやり、そちらに手招きをした。

「【風の骨】が戻ってきたわよ。あたしは彼の分を取りに行って来るから、悪いけどあとは自分でお食べ」

 マリアラが反応する前に、グロウリアは寝椅子のわきの小さなテーブルに皿を乗せ、立ち上がってしまった。マリアラは何とか体を起こした。デクターにあまり心配をかけたくなかった。

 ――意識してなきゃ既に使えてるよ。

 そう言ったデクターの言葉を思い出した。

 既に自分が魔力を使えるとわかっているのに、ケガを治そうとしないマリアラは、怠けていると思われても仕方がない……。

「よ。具合はどう」

 程なくやって来たデクターは、全くいつもどおりだった。マリアラを非難する様子も、軽蔑する様子もなかった。マリアラは何とか微笑みを浮かべた。

「だいぶいいよ」
「そっか。そりゃー何よりだ。……ディーンさんと連絡がついたよ」

 単刀直入に切り出された本題に、マリアラは呼吸が止まるのを感じた。
 デクターは真っすぐにマリアラを見ている。

「さっき連絡がきて。準備を整えて待ってるって。次に【治療者】がいつ来られるのかわからないんだけど、来たらすぐ治療してもらって――」

 治ったら。
 寒気がした。
 治って、ディーンさんと打ち合わせが済んだら、エスメラルダに行って、

 ――フェルド、に。

 目眩を感じた。視界が反転した。
 ざあっと血の気の引く感触は、ひどくまがまがしい感触をマリアラの体に刻んだ。

 気が付くとマリアラは長椅子に元どおり横たわっていて、デクターがのぞき込んでいた。一瞬意識が飛んだらしい。デクターは真剣な顔をしていて、手のひらを、マリアラの額に当てた。

「何があったんだ? なんでケガした? ――誰に何を言われた?」
「お願い……」

 マリアラは必死で囁いた。まだ体中から血の気がひいていた。指先がひどく冷たくて、小刻みに震えている。指一本動かせないような気がする。何とか口を動かして、声を絞り出す。

「おねが、い……も……すこし……待って」
「待つ」
「も、すぐ、元気に、なるから。も……すこし、だけ」

 それだけ言うのがやっとだった。
 情けなくてたまらなかった。心にしていた蓋が外れかけるだけで全身から血の気が引くなんて。今だけ、と、体中が悲鳴を上げてるみたいだ。今だけ待って。もう少しだけ待って。今は何も考えさせないで、ただ寝かせて……。

「わかった」

 デクターはあっさりと頷いた。少し微笑んで、マリアラの目の上にその手のひらをかざした。

「疲れが出たんだ。ここなら絶対安全だから、のんびりしてていいよ。初めから、今すぐあんたをつれて入る気はなかったよ。ただこの季節だから、あんたに雪山を越えさせるわけにはいかないからね。最終的には南大島側から船で入ろうと思ってて、そのために、移動できる状態になってて欲しかったんだ。
 ただ、ディーンさんに連絡しないわけにはいかない。今から行ってくる。帰るまでここで待ってて。グロウリアさんに、あんたが退屈しないように頼んで行くから」

「……」
「二週間くらいで戻るよ」
「……うん」

 それだけ言うので精一杯だった。

 結論を出さなければならないことはわかっていた。デクターは今から、雪山を越えるのに違いない――この季節に! マヌエルだから自殺行為とまではいかないのかもしれないが、それにしても困難ではあるだろう。そんな困難を彼に強い、ディーンという名のルクルスの元締めと詳細な打ち合わせをさせて――その上で、やっぱりフェルドに会うのはやめる、なんて、言うつもりなのだろうか。それくらいなら今ここで言うべきだと思うのに。もうわたしを見捨てて欲しいと、彼に伝えるべきだと思うのに。

 そう言ったら、フェルドを諦めることになる。

 この期に及んで、まだ諦めたくないと叫んでいる、自分の心が浅ましすぎて。宥める気力も湧かなかった。何より今は声が出ない。指一本も動かせない。

 ――ただ怠けているだけなのに。

 ケガだって貧血だって、もう大したことないはずなのに、それなのに、体が動かないだなんて、ただの言い訳に過ぎないくせに……。

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