ここのお日様はもといた島より随分のんびりしている。ようやく上がってきたお日様の光を浴びながら、レイルナートは朝ごはんを食べている。
しゃりしゃり、と緑菜が口の中で音を立てる。全く、と、噛みながら思う。ここのご飯は、全く美味しくない。
今朝までいたあの宿より、ここはだいぶ格が落ちるということらしいのだ。緑菜は切り口が少し変色して苦いし、玉ねぎは水っぽいくせに辛すぎる。薄切りのパンは焦げ気味だし、マルゴットの家で出されて以来すっかり気に入った乳脂は、ここでは全くの別物だった。あのコクのある冷たい乳脂をパンの上に乗せて食べたかったのに、べたべたと溶け気味の、分離しそうな代替品を出されては、不機嫌にもなろうというものだ。
オレンジジュースも水っぽい。ずずずず、と啜って、レイルナートはため息を漏らした。
退屈だ。当てが外れた、と言うべきか。
と、こんこん、とノックの音がして、レイルナートは、はーい、と応えた。
「どうぞー」
がちゃりと扉が開く。そこから入って来たのはふたり。ひとりはあのジレッドという男。次いで彼が引きずり込んだ華奢な人影を見て、レイルナートは動きを止めた。
マリアラだ。
彼女はジレッドに腕をねじり上げられていたが、縛られてはいなかった。ジレッドは扉を閉めるや否や、どん、とマリアラを床に突き飛ばした。なすすべなく倒れたマリアラの、肩でも腰でも足でも折ればいいのに、とレイルナートは考えた。そうすればもう逃げられない。
マリアラは既に、レイルナートの裏切りを知っているらしい。床に倒れた体をゆっくりと起こしても、何も言わない。ただじっと、レイルナートを見ているだけだ。非難の色も、悲嘆の色も、その藍色の瞳からは窺えない。
――そう、この瞳の色。
しげしげとマリアラを見ながら、レイルナートは考える。
――底知れぬ海の、光を浴びた水面の色。
一体どういうことなのか。神官が調べる過程で取り寄せた写真では、灰色だったはずなのだ。初めて島に立ち寄った時の報告でも、瞳の色が灰色だと言われていたのに。巨人の島に行って戻ってきたら藍色になっていて、マリアラはそれを不思議がる様子もない。
――この子は鏡を『見て』いない。
それが腹立たしかった。
瞳の色の変化だけではない。逃亡生活を始める前と今とでは、別人かと思うほど印象が違う。その変化を、彼女は認識さえしていない。マルゴットに髪形を変えてもらった時でさえ、ただ確認したというだけのそっけなさだった。
――それは『本物』だからなの?
――自らの容れ物の美醜など、意にも介さないというわけ?
「おはよう」
イーレンタールが作ってくれた、ペンダント型の翻訳機を弄びながら、レイルナートは言った。
「言ったでしょう、眠った方がいい、明日は早いんだから、って。忠告を聞かないから、一睡もできなかったでしょ」
「聞いててもそうは眠れなかっただろうけどな」
ジレッドがまぜっ返す。レイルナートはふん、と嗤って、机のわきに置いておいたスケッチブックを指でつついた。
「聞かないの? どうしてこんなことをしたのか、って」
マリアラが立ち上がった。その目には何の表情も浮かんでいない。ただひたすらこちらを見ている。レイルナートの真意を推し量ろうというように。
「だってあなた、言ったじゃない。わたしはあなたが好きじゃないから、あなたの言葉は、わたしには何の影響もない、って。……だから好きにならせてやろうと思った。おしゃべりできて楽しかった? あなたは自分を拒絶しない相手ならどんな人間でも好きになろうと努めるタイプだと思った。美術館を勧めてくれて、ありがとうね。〈いかづち〉にもお金を出させてくれて、本当にありがとう。あの時のあたし、けなげだったでしょ? あたしのこと喜ばせることができて、嬉しかったでしょう? あたしのこと、好きになったでしょう? どう、今なら届く? あたしはあなたが嫌いなの。初めて絵に描いた時から、大っ嫌いだった」
――『本物』だからって、誰からも受け入れられ、好かれ、認められると思ったら大間違いだ。
「さあて、ベルトランを呼んでやるか」
ジレッドが扉の前に陣取ったまま、低い声で言った。
「全くお前には散々手を焼かされたよ、マリアラ=ラクエル・マヌエル。ウルクディアで逃げ出されさえしなきゃあ、今頃はとっくにエスメラルダに帰れてたんだ」
ひどく恨めしげな口調だった。
「グールドのせいであっちはてんやわんやでさ、しばらく待ってろって言われちまった。でもまあ、お前捕まえたからな、大手を振って帰れるか」
マリアラは相変わらず何も言わない。
「俺はお前みたいな小娘が嫌いなんだが、」ジレッドは薄く嗤った。「ベルトランはもっと嫌いなんだよ。エスメラルダの保護局員にやっぱりお前みたいな小娘がいて――ベルトランは嫌いな小娘をいたぶるのが何より好きって奴で」そしてジレッドはレイルナートを顎で指した。「その小娘も悪趣味で、そういう様子を目の前で見たいんだと。同情するよ。なんでこんな人間を懐に入れたんだかなあ」
「努力して絵を売るより、やっぱり、神託を売った方がずっと高く売れるって思ったの」
レイルナートはマリアラに笑いかけた。
いまだに、マリアラが青ざめもしないのが少し不満だった。
「組織が大きければ大きいほど、あたしの神託は高く売れる。世界一の技術者が作った翻訳機、莫大なお金、大都会での華やかな、安楽な生活。そしてあんたが堕ちる様子を間近で見る。あんたの〈いかづち〉にはどれひとつとして用意できないものでしょう。こっちについた方が利口だわ」
――思い知るといいんだ。
レイルナートが『エルカテルミナ』として祭り上げられてきた十数年の重みを。
――『本物』がそれほど大事なら、騙った瞬間に雷の神が神官を撃つべきだったのだ。
そしてレイルナートは、この世の『本物』がすべてそれ相応の扱いを受けるわけではないことを知りたかった。『本物』だというただそれだけで、『善』であり『正義』であると決めつけて尊重する、すべてのものを軽蔑する覚悟だった。
そして今、『本物』がジレッドの手に捕らえられたのだ。ジレッドという、あの粗暴と悪意が服を着たような男ももうすぐここに来る。やはり『本物』になど何の価値もなかったのだ――と思ったときだ。
マリアラが、立ち上がってから初めて動いた。
右手を少し体から離すようにした。袖が何か、生き物のように蠢いた。
――何かしら、あれ。
何かを悟ったらしいジレッドが狼狽の声を上げた、瞬間。
ばしゅっ、と、マリアラの右手から何かが飛び出した。がちがちがちっと瞬く間に組み上がったそれは、竜のあぎとのような、禍々しい不細工な代物。彼女はそれをまずジレッドに向けた。
竜のあぎとが雷を吹いた。
ジレッドの体が弾かれたように吹っ飛んだ。扉に叩きつけられたジレッドは床に崩れ落ち、がくがく震えた。口から泡を吹いて白目を剥いている。何という威力――レイルナートは咄嗟にしゃがみこんだ。間一髪、雷の固まりはテーブルの上にあった食器を朝ごはんごと吹っ飛ばした。レイルナートの背後の壁に叩きつけられた食器が破滅的な音を立てた。びりびりと細かい稲光が中を這い回る。
レイルナートはテーブルの下からその人を見た。
それは既に、デクターに戻っていた。
デクターだったのだ、と、レイルナートは考えた。マリアラはまだ自由で、安全な場所に行こうとしている。あたしの裏切りを知らないまま。
あたしの嘲りを、悪意を、罵りを、あの子はまだ聞いてもいないのだ。
――何てこと。
知識として知ってはいても、あれほど見事に外見が変わるとは。レイルナートは必死で頭を働かせた。
足音が近づいてくる。まるで死神だ。
「脅されたの」
レイルナートは囁いた。
「脅されて、仕方なかったの。あたしが悪いんじゃないわ。ねえ、話を聞いて。あたしの、あたしの、神託が、失われてもいいの?」
デクターの冷たい声が聞こえる。
「〈神託〉がどんなに必要な力でも、使う人間が腐ってちゃ、どっちにせよないのと同じだろ」
「どうすれば良かったの? 脅されて、捕まって、他にどうしようも」
「自分から会いに行ったんだろ、あいつに。そういえばお前のスケッチブックの中に、マリアラと一緒に描かれたジレッドの絵があった。町中でジレッドを見つけて、美術館に行くって嘘ついて会いに行った」
「ほ、本当に行ったのよ、美術館。素晴らしかったわ。あたし、あたし、ああいうところに、誰かからお小遣いをもらうんじゃなくて、自分の力で、好きに行けるようになりたかったんだもの――用が済んだらほうり出すって言ったじゃない――だから、その前に、捨てられる前に……」
テーブルをそろそろと回りながら話していたが、レイルナートはぎくりとして動きを止めた。デクターの黒い瞳が今まともにレイルナートを見ていた。机を回るタイミングを間違えて、立ち止まっていたデクターの目の前に自分から無防備な背中をさらしていたのだ。
レイルナートは振り返り、座り込んだ。
「あたしを殺すの?」
デクターは頷いた。「放ってはおけないからね」
「あの子が、悲しむと思うわよ」
「別に言わなきゃいいことだし」
「今度は! 今度、今度こそは――」
「物事には取り返しがつかないってことがあるんだよ」
右手の竜の顎がこちらに向けられた。レイルナートは囁いた。
「やっと自由になったのに」
「……」
「絵を見たり自由に描いたりすることもできない場所から、やっと外に出られたのに……」
「今あの子がここにいなくて本当に良かったと思うよ」
デクターが独り言のように言った。竜の顎が伸びてきて、レイルナートの心臓の上に押し当てられた。離れた場所からであの威力だ。心臓をまともに襲われたら、ひとたまりもないだろう。
と、どん、と外で扉が音を立てた。
「お客様!」
わめく従業員の声がする。先程の騒音を聞き付けて、様子を見にきたのだろう。デクターは意にも介さなかった。返事もしない。
「リーザも殺したの」
そう言った声は我ながら掠れている。デクターが本気だということはわかりきっていた。デクターはレイルナートの瞳を見て、軽く頷いた。
「そうだよ」
「冷たいのね」
意外だった。こんな冷酷な人だとは思わなかった。どちらかというとお人よしで、マリアラほどではないにせよ、情に厚い人だと思い込んでいた。
「一度は恋人だったのに」
「あの女と恋人だったことなんか一度もないよ」
「嘘よ、だって、」
「あの人は」みしり、と、竜の顎がかすかな音を立てた。「リーザとは似ても似つかない。一緒にするな」
その時デクターの顔に浮かんだ表情の変化を、レイルナートは見ていなかった。
神託が、降ってきたからだ。
「あ……」
目の前に描き出された光景が何なのか、レイルナートには分からなかった。大量のコードや電盤、スイッチで組み上げられた、複雑な機械の中身だった。人の姿はどこにもない。
――何これ……
「なもの見ないでいいよ」
デクターの声が途中から聞こえ始め、レイルナートは衝動を覚える。今見たものをスケッチブックに残したいという、本能的な、強い烈しい欲求だった。
「今さら見たくない」
竜のあぎとがカチリとかすかな音を立てた。
と。
ぴりりりりりり、と、明るい電子音が響いた。
ジレッドがもっていた無線機が、部屋の隅で鳴っている。
「お客様!」
従業員の声とノックが高くなる。扉の前にジレッドが倒れているので、扉が開かないらしい。
電子音はすぐに止み、ぴー、という音が鳴り、声が流れ出た。
とても得意そうな、イクス=ストールンの声。
『ジレッドさん、イクスです。捕まえましたよ、マリアラ=ラクエル・マヌエルです』
「……」
竜のあぎとが引っ込んだ。
デクターが立ち上がり、ジレッドの方を振り返った。イクスの声はまだ続いている。
『ホテルにいるんで、戻ってきてください。ベルトラン……さん、にも、連絡しときますね』
イクスの声はそれで沈黙した。捕まえたのだ、とレイルナートは考えた。あの子が、悪魔の手に捕まった。
――あの子が敵に捕まったのに。ベルトランにも連絡すると言った。今ごろイクスは電話をかけ、ベルトランはそれを聞いているだろう、そうしたら、大喜びで駆けつけるに違いない。ホテルに着いたら、ベルトランは、マリアラにいったい何をするだろう。
あたしはそれを見届けられないのだろうか。
デクターはジレッドの方を向いたまま、何かを操作していた。
テーブルの陰から首を伸ばして覗くと、彼は何か、四角い箱をのぞき込んでいた。マルゴットが化粧に使っていたのと似ている。しばらく食い入るようにそれを見て、デクターはかすかに舌打ちをした。
「念を押しとくべきだった……」
そして。
はっと気づくと、そこにデクターはもういなかった。
レイルナートは瞬きをした。先程まであんなに圧倒的な存在感を放っていた死神が、もう目の前にいない。たぶん、と、彼女は思った。マリアラを助けに行ったのだ。〈いかづち〉が、〈姫〉の危機に、手をこまねいているわけがない。〈いかづち〉の役目は敵の排除ではなく、〈姫〉を危険から守ることなのだから。
気は急いていたが、レイルナートはまず、先程の神託を描いた。今まで、一度受けた神託を描かずに済ませられたことはない。描かれるまで神託はレイルナートの中で暴れ続ける。一刻を争う時だというのに、全く神託というのは面倒なものだ。
できあがった絵を見直しても、やはり意味が分からなかった。複雑な構造の、機械の内部の絵だ。デクターが『あの人』と呼んだ、リーザにそっくりの、でもリーザとは似ても似つかない誰か。かつてデクターが心の底から愛していたはずの誰か。それにまつわる神託が、なぜ機械の内部になるのか、レイルナートには全くさっぱり意味が分からない。
でも今は、どうでもいいことだった。レイルナートはその絵をスケッチブックから切り取って机の上においた。満足のいく絵だけを手元に残すのは習性のようなものだ。この絵の出来はさておき、こんな意味の分からないものを残しておく趣味は無かった。
スケッチブックを小さくしてポケットにしまう。
マリアラに乞われて、レイルナートは既にいくつかの絵を手放していた。フェルドとか言うマリアラの相棒が、マリアラに何かを手渡している絵と、ふわふわ巻き毛の人形染みた可愛らしい少女とマリアラが、巨大な器に入った食べ物――パフェ、と言うらしい――を食べている絵と、ミランダとマリアラがおしゃべりしている絵と、その他にもまだいくつか。そうだ、あの絵をマリアラから取り上げてやろう、と考えた。目の前で引き裂いてやるのもいい。幸せに安穏と暮らしていたころの思い出の絵を取り上げてやったら、もう二度と戻れないのだということがもっと身に染みるだろう。
レイルナートはそれから、急いでジレッドのところへ行った。ホテルの人間はもう騒いではいなかった。廊下の前から引き返したらしい。扉の透き間から覗く部屋の惨状に恐れをなしたか、関わりたくないと思ったか、それとも、治安を維持する警察とか言う役目の者を呼びに行ったか。なんにせよ長居をする理由は一つもない。
しかしジレッドは起きなかった。死んではいないが、完全に伸びてしまっている。何度か揺すって、引っぱたいて、大声を上げてから、レイルナートは諦めた。方向感覚は悪くない方だ。昨日あのホテルの場所は覚えたから、ひとりで行ってみても大丈夫だろう。それにこのままジレッドと一緒にいて、何か不都合に巻き込まれることは絶対に避けたい。
ぐんにゃり伸びたジレッドの体を引っ張って扉の前から退かし、レイルナートはその部屋から滑り出た。
足早に廊下を歩く。長い廊下の端にたどり着き、階段を降り始めたころ、遠くで扉が閉まる音が響いた。どこかの部屋から誰かが出てきたのかもしれない。急がなければ。誰にも会いませんようにと祈ってから、レイルナートは足早に階段を駆け降りた。

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