ヴィレスタとトール

 先ほどイクスが喚いたからか、それとも夜が明けてきたからか。周囲にざわざわと、人の気配を感じる。

「お騒がせしてすみません、アリエディア警察です! 犯人は捕らえましたので、もう大丈夫です! ご安心ください!」

 イクスがことさらに嬉し気に喧伝しながら歩いていく。
 彼はものすごく機嫌が良かった。首尾よく『指名手配犯』を捕えることができたからだろう。

 ぴっぴっ、と電子音が鳴った。イクスが無線機を操作しているのだ。呼び出し音が聞こえる。ややして、ピーッ、と音が鳴って電子音声が流れた。イクスはちっと舌打ちをして、無線機に話しかける。

「ジレッドさん、イクスです。捕まえましたよ、マリアラ=ラクエル・マヌエルです。ホテルにいるんで、戻ってきてください。ベルトラン……さん、にも、連絡しときますね」

 ぶつっと通話を切って、またかける。呼び出し音がまた鳴って、今度はすぐに出た。おうなんだ、と言った声はとても横柄だった。それに被せるように、イクスは得意そうに言った。

「何やってるんすか。俺、捕まえましたよ」
『…………!! ――――!!』

 相手が怒鳴り、音が割れてよく聞き取れない。イクスは耳から無線機を遠く離して、相手の激昂をやり過ごした。少し落ち着いたのを見計らって、また耳に当てる。

「近くにいるんですか? あー……あー、まあ……あの人は、あんま手荒なことするなって。……はい。でも逃げる気なくさせた方がいいのは確かっすよね。そっすね。…………いっすよ。あんま遅くなったら先に始めますんで。レイルナートって女、近くにいるんすか? え、ジレッドさんの方? んーまーいーや、くる途中で会ったら伝えといてください、早く来ないといいとこ見過ごすよって」

 それで通話が終わった。マリアラはぼんやりしていた。レイルナート、と言ったような気がする。なぜ、彼女の名が、イクスたちの仲間のように出てきたのだろう。
 逃げる気をなくさせるとか、遅くなったら先に始めるとか……どう考えてもマリアラにとってメリットのなさそうな話がまとまったというのに、体はまだ全然動かず、トールの小さな肩の上に全体重を預けて荷物のように運ばれていくしかない。しかし、しびれは少しずつ薄れていく。それと呼応するように、危険を告げるあの不思議な感覚もどんどん高まっていって、マリアラを責め立てる。

 逃げろ。
 逃げろ。
 早く逃げろ。

 全身がそう言っているのに、〈トール〉の腕は全く揺らぐ様子がない。

「ヴィヴィ……」

 耳元でささやくと、〈トール〉がびくりとした。でも、返事はなかった。

「ヴィヴィ、お願い……」

 もう〈トール〉の腕は揺らがなかった。ヴィレスタは、記憶を無くしてしまった。大好きなミランダのことも、忘れてしまっているのだろうか。そう考えて、マリアラは悲しくなった。
 一体どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 抱えられて進んだ距離はそれほど長くない。角を曲がって、ほんの一ブロックか、二ブロックほど進んだだろうか。
 そこは、すでにホテルの前だった。
 斜めになった視界の中に、見覚えのあるホテルが見えた。ウルクディアの、マルゴットのアパートでレイルナートが描いた〈神託〉にあったホテルと、そっくり同じ建物が、すぐそばにあった。

 やはりあれは、トールの〈神託〉だったのだ。

「あれ。なんだよ、めっちゃ近くにいたんじゃん

 イクスがそう呟き、マリアラはそろそろと頭を動かして、ホテルの前を見た。ホテルの扉が開いていて、そこに大柄な――とても大柄な男の人が、頭を突っ込んでいるところだった。一度入りかけた体を引き戻して、大柄な人はこちらを見た。

 異様な風体の男だった。
 盛り上がった筋肉で、服がぱんぱんにはち切れそうだった。薄い茶色の髪が額に張りついている。無精髭。何より、一番目を引くのはそのぎょろっとした大きな目だ。
 その目がイクスを見、トールを見――

「なんだ、まだついてなかったのかよ!」

 マリアラを見て喜色をたたえた。全身を這い回る不思議な感触はもはや痛いほどだった。その声には聞き覚えがあった。モーガン先生の部屋に、ラルフを連れて行った時――ジレッド早くしろ、と喚いたあの声。それから、アナカルディアで。あの親切な浮浪者にねぐらを譲ってもらった時も、扉一枚隔てた向こうで、早く開けろと怒鳴った。あの声。
 ベルトランだ。
 そして今、彼のギョロ目に湛えられているのは、紛れもない嗜虐の色だ。

「若造のくせに、よくやったじゃねーか。ほれ、こっちへよこしな」

 ベルトランがこちらへ来ようとし、扉に背を向けた瞬間。
 開いたままの扉の中から、真っ黒な突風のように何かが飛び出した。

「なっ」

 完全に不意を突かれたベルトランは、エントランスの階段を踏み外して転げ落ちた。
 マリアラは目を疑った。倒れたベルトランの上に飛び乗ったのは、あの島にいた、小ぶりな子鹿くらいの大きさの、魔物だった。
 悲鳴が上がった。マリアラが連行されるのを遠巻きに見ていた野次馬たちが大慌てで逃げていく。

「なんだ!?」

 イクスが喚く。その時銃声が響いた。ベルトランが発砲したのだ。魔物はまともに額に食らい、もんどりうって弾かれて、ベルトランから距離をとった。
 〈トール〉の腕が緩み、マリアラは、地面に崩れ落ちた。体の痺れはかなり回復してきていた。座り込んだ姿勢ながら、体を起こして保つことができた。

「てめっ、……裏切る気か!?」

 ベルトランが言いもう一度発砲した。魔物はしなやかな動きでそれを避けた。ははは、と嗤う声が聞こえる。

『裏切るとは心外じゃな。そなたと仲間だった覚えはないが』
「ざけ――んなっ」
『そなたを喰らえば儂の体力はかなり戻る』

 魔物は笑みを含んだ声で言った。

『崇高なアシュヴィティアの糧となれる。誉を受け入れるが良い――汝の生き様が、この世にわずかでも価値を残す機会だと知れ』
「うるっせえ!」

 ベルトランがさらに発砲し、「ストールン!」怒鳴った。「ぼさっとしてんじゃねえよ! 弓出せ弓!!」

「あ、あ」

 イクスが我に返り、ポケットを探って何かを取り出した。ぽん、という音と共に元の大きさに戻ったのは、片手弓だ。まだ扱い慣れていないらしく、弓を装填する手つきがおぼつかなさを感じさせる。

『おや、イクス=ストールン。よう考えるが良い』

 魔物はイクスには猫撫で声でそう言った。

『ベルトランを儂が食えばどうなる?』
「撃て!!」

 ベルトランが吠え、イクスが撃った。ばしゅっ、と放たれた弓は魔物のすぐそばを掠め、ホテルの扉に突き立った。『やれやれ……』魔物がそう言った時、マリアラは、ようやく両足に力が戻るのを感じた。

 立てる。
 今しかない。

 膝が震えたが、何よりも、全身をざわめかせる不思議な感覚に追い立てられる。立ち上がった瞬間、魔物がマリアラに気づいた。『な――!』魔物の全身にさざなみが走った。魔物は何故か、マリアラを恐れているようだった。弾かれたように飛んで逃げ、それをイクスの片手弓がまた撃った。
 ベルトランは地面に倒れていた。「くそっ……」毒付いている声が聞こえる。魔物の〈毒〉が入ったのだろう。〈トール〉はベルトランの方を見ながら放心したように動かない。

 マリアラはそろそろと後退った。
 しかし。

「トール!」ベルトランが倒れたまま、威圧的な声で怒鳴った。「その娘をホテルに放り込め。逃すんじゃねえぞ!」
『……了解しました』

 〈トール〉は無機質な声で言い、マリアラをもう一度、ひょいとばかりに担ぎ上げた。
 マリアラは抵抗した。あのホテルは彼らの本拠地のはずだ、絶対に、ここで逃げなければならない。しかしトールはあっさりと、本当にごく易々と、マリアラの自由を奪った。

『大人しくしてください。ケガをさせたくはありません』
「トール、ねえ、トール。聞いて。ミランダは――」

 必死であげた名前にトールが見せた反応は、あまりに激しかった。
 瞳から完全に光が失せた。ダスティンと似た茶色の瞳が、まるで闇みたいに真っ黒になった。マリアラはゾッとした。全ての感情が抜け落ちた、とても虚ろな瞳だった。マリアラを拘束した両手にグッと力がこもり、マリアラは、骨が軋むのを感じた。

「トー、……ル……!」
『私は、あの人にふさわしくありません』

 独り言のように〈トール〉は言った。

『だから、……頑張らないと。ちゃんとしないと。だから……』
「あなたがふさわしくないなんてあるわけないよ!」
『ちゃんとしてたら』トールはマリアラを、ホテルの中に担ぎ込んだ。『ちゃんとしてたら、……そしたら……』

 乱暴に床に投げ出され、マリアラは必死で頭をもたげる。石造りの床が、ひどく冷たい。
 そこは質素な、ビジネスホテルのようだった。狭いロビーの正面にカウンターがあり、周囲にソファや長椅子が置いてある。三階建てで、ロビーは吹き抜けになっていて、三階まで見上げることができた。

「マリアラ!?」

 聞き覚えのある声がしてそちらを見ると、そこにいたのはイーレンタールだった。記憶にあるよりずっと窶れて、目の下が落ち窪んで黒くなっていた。頬が削げ、無精髭を生やしている。
 でもイーレンタールに間違いない。懐かしい顔だ。

「イーレンタールさん、」
『トール、動くな』

 イーレンタールがそう言い、〈トール〉はぴたりと動きを止めた。
 イーレンタールはこちらにやってきた。彼が元いた場所の足元にシートが敷かれていて、その上に、小さな子供が寝かされているのが見えた。黒い真っ直ぐな髪をおかっぱにした、とても可愛い少女だった。
 ヴィレスタに、そっくりだ。

「ヴィヴィ……!?」
「ああ、ヴィヴィだ」イーレンタールは呟くように言った。「……ヴィヴィだよ。ミランダの訴えは事実無根なんだ。そうだろ? だってヴィヴィは、ここにいるんだからさ」

 そう言ってイーレンタールは、自嘲するように笑った。

「なんとか間に合いそうでよかったよ……」

 ――ミランダはイーレンタールを相手取って、裁判を起こした。

 マリアラは唾を飲み込んだ。イーレンタールの落ち窪んだ目、ここ何日も、眠っていないような様子。入浴も散髪も後回しにしてきたような風貌に、薄々、事態を悟り始める。

 トールの中には、ヴィレスタがいる。トールの体はもともとヴィレスタのものだ。
 ヴィレスタの記憶は消去された。でも、バックアップがある。新しい体さえあれば、その記憶をインストールして、ミランダに返すことができる。

 ヴィレスタさえ戻れば、ミランダは満足だろうと。ミランダの〈財産〉が盗まれて改造されたという罪もうやむやになる。だって、盗まれた〈財産〉は、ミランダのところに戻るのだから。

「何を……やってるの……」
「いや、だってさ。俺も、悪かったなと思って」イーレンタールは頭をかいた。「黙ってやったのはさ……でも、しょうがないだろ? 校長から言われたんだ、ヴィレスタはあまりにも高性能すぎた。あんな護衛をミランダに返すのは良くない、バランスが崩れてしまうからって。だからトールにしたんだ。でも確かに、そうだよなって思って。ミランダに黙って、勝手に、トールを作ったのは良くなかった。裁判起こされるなんて、くそっ。だから、だからさ、ミランダに返そうと思ったんだ。そうすれば、八方丸く収まる。そうだろ?」

「そんなわけ、ないでしょう!?」

 マリアラの胸に、怒りが湧いた。
 目が眩むほどの強い怒りだった。勝手なことをとマリアラは思った。いったいどういうつもりなのだ、何をどうすればそんな考えが生まれるのだ。イーレンタールはマリアラの怒りにたじろぎ、宥めるように手をあげた。

「だってトールもそれを望んでるんだ。な、トール? そうだよな?」
『はい、もちろん』〈トール〉は頷く。『もちろんです。そうすれば、|私《・》は、あの人に相応しい存在に……』

 戻れるのですから。

 トールはそう言って微笑んだ。あの真っ黒な瞳で。

 イーレンタールって、こんな人だったのか。

 感じた幻滅はあまりにも強くて、マリアラはイーレンタールから目を逸らした。まともに顔を見られない。
 本当にわからないのだろうか? こんなすごい魔法道具を作ってしまうほどの人なのに、本当に、理解できないのだろうか?
 新しい体なんか作ったって、ヴィレスタにもミランダにも、なんの役にも立たないのに。

 ああ、ミランダは本当に優しい人だ。優しくて、聡明だ。彼女はわかっている。ヴィレスタはトールなのだと。ただ記憶を無くしただけ。トールという設定を与えられ、ダスティンという相棒を与えられても、ヴィレスタという存在の根幹は、何も変わっていなかったのだと。

 それなのに。

「トール」

 マリアラはささやいた。〈トール〉の体が、ぴくりと動いた。

「トール。わたしは、裏口から逃げる」
『阻止します』〈トール〉は言う。『あなたを見張るのが、私の役目です』
「あなたの役目は、ミランダのところに帰ることだよ。……一緒においで。連れて行ってあげる。イーレンタールさんになんて言われたか知らないけど、ヴィレスタだけあっちの体に移すなんて絶対に無理だよ」

「いやそれが、できるんだよ俺なら」イーレンタールは反射のように言った。「こっちのヴィレスタは厳密に元のヴィレスタと同じ設定にしてあるんだ。あとはトールん中の感情回路をこっちの体にコピーすれば……」

「そんなことを許しちゃダメだよ、トール」

 マリアラはトールの前にかがみ込んだ。

「そんなことをしても、あなたのコピーができるだけ。あなたとヴィレスタを分けることなんか絶対にできない。あなたの苦しみは終わらない。自分そっくりの知らない誰かが、ミランダのところに行くのを見送って……あなたはずっとそのまま、苦しむことになるだけだよ」
「大丈夫だよ、俺がちゃんとしてやる。俺を信じろよ、な? 多分感情回路にバグがあるんだと思うんだよな」

 イーレンタールが割り込もうとするが、マリアラは、トールから視線を離さなかった。

「ヴィレスタはあなたのバグじゃない。トール、聞いて。ヴィレスタとあなたを分けることなんか絶対にできない。だってヴィヴィ、あなたはトールなんだ。そしてトール、あなたはヴィヴィそのもの。わたしもミランダも、ヴィヴィがいるからあなたを心配するんじゃない。あなただから、好きなんだ。あなたからヴィヴィだけを取り出すなんてできないし、たとえできたとしても、そんなの意味がないよ。ねえヴィヴィ、逃げるのはやめて。誰かに言われて、逆らえなくて、ひどいことをしなくちゃならなかったんだよね。でもそれを……トールだけのせいにすることはできないんだよ」

 胸に湧いた怒りは強く、強く、残っていた痺れを完全に追い出した。マリアラは体を起こし、踵を返した。悔しくて、悲しくて、たまらなかった。いったい何故、どうして、ここまでヴィレスタを蔑ろにすることができるのだろう。

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