トールとヴィレスタ

 その素直な感情の発露に、マリアラは胸をつかれた。

「し、知ってると思うけど、わたし、今、追われている身で……だから、安全とは、言えないんだけど……巻き込んじゃうことになっちゃう、けど、でも、その。よかったら、一緒にいかないかな。あなたがとても強いことをわたしは知ってる。だから……一緒に来てくれると、助かると、いうか」

 デクターはどう言うだろうとマリアラは思う。
 きっと呆れるに違いない。そう思う。
 けれどもはやトールに、やっぱり忘れて欲しいと言うことは絶対にできなかった。トールは少し、ほんの一瞬、ためらった。けれど近くにあった郵便ポストの足元に、まだ湯気の立つカップを二つ、きちんと並べておいた。

『あなたが追われているなら……』

 トールが、ある種の決意を固めたのにマリアラは気づいた。
 その決意はきっと、ジレッドやベルトランを裏切り、あえて危険な道行きを選択することだとマリアラは考えた。トールは膨らんだビニール袋も紙コップの横にそっとおいて、決然とマリアラを見上げた。

『どうか……僕にその護衛をさせてください。一緒に、行ってもいいですか。ぜひ……!』
「よかった」

 マリアラは微笑んだ。本来なら、もう少し警戒すべきだとわかっていた。トールに害意がないことは確かだったが――あのピリピリした嫌な感触は、一切感じられなかった――トールは【魔法道具人形】なのだから、発信機などを知らぬ間に組み込まれていても、ちっともおかしくないのだ。
 けれど、その時はその時だ。ミランダが、トールの『逃亡』にどんなに心を痛めていたかを知っている。そこへきて、決して幸せそうに見えないトールに会ったのだから、それは見捨てろという方が無理な話だ。

「じゃあ、行こう」
『はい!』

 トールは微笑んで、早足で歩き出した。その右手がわずかに持ち上げられ、無意識に、何かを探すように揺れた。マリアラはハッとした。ああ、ヴィヴィがいる。
 トールの中にヴィレスタがいる。ミランダとヴィレスタが一緒に歩く時、二人はよく手を繋いでいた。
 トールのあげた手をつかむと、トールはびっくりしたようにこちらを見上げた。

『あ……』

 恥ずかしそうだったが、なんだか少し嬉しそうにも見える。優しくされると悲しくなるって――ミランダの悲しそうな声が耳によみがえる。
 ミランダとトールを会わせてあげたい。でもトールを連れてウルクディアに行くのは難しいだろう。
 ならば、取れそうな手段はひとつしかない。

「ね、トール。ひとつ教えて。昨日、ジェムズさんと言う人に会わなかった?」

 そう言った瞬間、トールがぎくりとした。
 悪事を見破られた子供のような、反応だった。
 会ったのだ、とマリアラは悟った。

「あのね、トール、あの人はすごく信頼できる人なの。連絡先、聞いてないかな?」

 トールは【魔法道具人形】だから、完全に独立して動き回ることができない。
 おそらくトールに魔力を提供しているのは、今もダスティンなのだろうとマリアラは思う。ミランダはそれを自分に変えてくれるよう、ラセミスタに依頼するため、ガルシアに行く予定だったと言っていた。トールが自由になるためには、ミランダと一緒にガルシアに行くことが不可欠だ。そしてトールをミランダのところに連れて行ってくれるのは、ジェムズくらいしか思い浮かばない。

「ミランダのところに戻るには、ジェムズさんを探さないと……」
『僕は……』

 トールの声が揺らぎ、そして。

「どこ行くんだよ」

 冷たい声が背後からかけられ、マリアラは、トールも、飛び上がった。

 振り返るとそこに、不機嫌そうな若者が立っていた。見覚えのある人だ、そう思った瞬間に思い出した。
 イクス=ストールン。
 かつてフェルドと同室だった――その頃、フェルドのベッドに蛇が入っていたことがある、と教えてくれたのはラセミスタだった。三倍返しが身上のフェルドは、サソリの生態に詳しくなった。
 その話を聞いていなかったとしても、そもそもいい印象はなかった。雪山で遭難した時、子供達を押し退けて洞窟に駆け込み、一番奥に陣取ったとリンから聞いた。いないほうがよほどマシだったと。リンやゲンのような、子供たちのために進んで不利益を引き受ける人間を、馬鹿にし、あざ笑っていたようなふしがある。リンが落ちてあいつが受かったら絶望だ、と、ゲンは報告書に書いていた。
 トールを知っていると言うことは、ジレッドやベルトランと一緒に行動しているのだろう。
 この人も、保護局員になったのか。

 イクスは右手に、小さな無線機を握り締め、蔑むようにトールを見ていた。

「なかなか帰ってこねえと思ったら……トール。お前、何やってんのか分かってんのか!」

 その威圧的な怒鳴り声に、ますます、イクスへの悪感情が育つのを感じる。
 その瞬間、出し抜けに視界が揺れた。マリアラはギョッとした。トールがマリアラを軽々と抱え上げたのだ。
 そのまま走り出したトールにイクスが喚く。

「てめっ、……裏切る気か!」

 トールの足は速かった。マリアラの体重など荷物でもなんでもないというように軽々と走っていく。体が小さいから重心が定まらず視界が揺れるが、イクスよりずっと速い。イクスの喚き声が耳障りだ。マリアラは必死でトールの小さな体にしがみつく。
 その時、走るイクスの無線機から、冷たい声が流れ出た。

『ヴィレスタ』

 がくん。
 トールが急停止し、マリアラは前に投げ出された。斜めになった視界に、苦しそうに歪んだトールの顔が見えた。『う……』トールはうめき、マリアラは体を起こした。「トール!」

『それはトールじゃない。知ってるんだろう?』

 無線機の向こうで、無慈悲な声が聞こえる。とても涼やかで、玲瓏で、透き通っていて、すごくいい声だった。この声は誰だろうとマリアラは思った。ジレッドの声でも、ベルトランの声でもない。

『知ってるんだろう、マリアラ=ラクエル・マヌエル? だから君は、トールを助けようとしているんだもんね?』
「え……?」
『わかってるだろう、トール。お前を助けようとする人間なんかいやしないんだ。お前の中にヴィレスタがいるから、彼女たちはお前のために胸を痛めるんだよ』

『ああ――』

 トールはぐしゃぐしゃに顔を歪めた。

『わかっているのにそれを黙って逃げようだなんて、自分も一緒に助けてもらおうだなんて、虫が良すぎる。ヴィレスタ。いいのか? トールと一緒のお前は、ミランダに相応しいだろうか?』

 その名が呼び起こした反応は、あまりに劇的だった。ピリッとマリアラの肌にさざなみが走った。
 危険――危険。〈トール〉だったときには感じなかったあの不思議な感覚が、今、マリアラの肌を這い回っている。

『……きたない』

 淡々と、〈トール〉は言った。目から光が失せていた。さっきまでの苦しそうな表情も罪悪感も抜け落ち、人形のような顔でトールは言った。

『手術を……受けなければ……』
『さあヴィレスタ』イクスの持つ無線機から、冷たい声が流れ出る。『お前が今なすべきことはなんだ――?』
『指名手配犯を発見しました』

 そう呟くように言ったトールは、今、本物の魔法道具に見えた。
 さっき『一緒に行ってもいいですか』と言ったトールとは、全く違っていた。瞳の色まで違うように思えた。表情がこんなにも人の印象を変えるものかと、マリアラは驚いた。目の前にいるトールの体から、トールの精神が追い出された。抜け殻になったトールの体が、淡々とマリアラに言った。

『抵抗は無意味です。大人しくしてください。警告。逃亡の際は両足の破損を許可されています。無用な攻撃は私の倫理規範に反しますが、任務遂行のための最小限の措置は推奨されています』

 マリアラは悟った。ヴィレスタには、記憶がないのだ。ヴィレスタにとって、マリアラは捕えるべき指名手配犯でしかない。
 無線機から流れ出る謎の声が言った〈手術〉というものがなんなのかわからないが、〈ヴィレスタ〉はそれを望んでいる。

 危険を警告するあの不思議な感覚に背を押され、マリアラは走り出した。走ったって逃げられるわけがないのに――そう思った瞬間、トールの右手がマリアラの腕を掴んだ。引き戻され、振り向いた視界に、トールが掲げる小さな機械が見えた。
 それはトールの手のひらに握り込めるくらいの小さな道具だった。金属製の表面が光っている。先端についた二つの突起から微かな青白い火花が不規則に飛び散り、パリパリと音を立てている。

「トール……!」
『任務を遂行します』

 トールはマリアラの首を狙った。
 が、その感情の抜け落ちた瞳に逡巡の色が走った。青白く光る機械の先端がぶれ、マリアラの鎖骨のあたりに押し当てられた。

「あ――!」

 心臓を直接殴られたかのような振動が全身を駆け回った。マリアラは喘ぎ、両足から力が抜けるのを感じた。地面に倒れ込みそうになったマリアラの体を、トールの、小さいがしっかりした両腕が支えた。

『連行します』

 機械は地面に投げ捨てられていた。じんじんとした痺れと痛みが全身を駆け巡り、呼吸がうまくできなかった。自分の手足がどこにあるのかわからなくなっていた。ぐらぐらと視界が揺れて吐き気を感じた。なのに、自分の胃がどこにあるのかわからない。

『よくやった、ヴィレスタ』

 イクスの持つ無線機から、優しい声が流れ出る。痛みと痺れとめまいと吐き気で混乱した脳のどこかを、優しい声が撫でていく。

『ストールンくん、すまないけどそろそろ会議の時間なんだ。あとは任せてもいいかな』
「もちろんです」イクスは熱心に言った。「ジレッドさんに連絡します。そろそろ〈手術〉の準備もできるころだし。……これで俺らもエスメラルダに帰っていいんですよね? 指名手配犯、連行しないといけないですもんね?」
『ああ、そうだね。ベルトランを見張っておいてくれ。あんまり手荒な真似はしないように』
「……」一瞬の間があった。「わかりました。ベルトラン、さんに、言っときますね!」
『頼むよ』

 それっきり無線機は沈黙した。「優しいんだよなあ」イクスは呟く。

「あいつ諦めさせるには、相棒を壊してやるのが、一番簡単だと思うんだけどなあ――」

 トールは無言でマリアラを運んでいく。スタンガンだったのだろうかと、マリアラは、今更考えていた。デクターが使うあの稲妻じみた電流の武器よりも遥かに小さく、相手への配慮を感じさせる道具だった。

 じんじんする痛みは少しずつ薄れていく。それと同時に、考えられるようになっていく。イクスはジレッドとベルトランの仲間で、マリアラを捕らえたことを二人に報告するのだろう。連れて行かれた先に、ジレッドとベルトランが戻ったら――もう二度とフェルドに会えないような目に、遭わされてしまいかねない。
 でも、わずかな望みがあった。初めに首を狙ったトールは逡巡し、衣類の上から鎖骨のあたりに押し当てることを選んだ。それはトールに、またはヴィレスタに、首を狙うと影響が大きくなりすぎるという知識があったからではないだろうか。
 動けるようになるまであとどれくらいかかるのだろう。デクターはどうしているだろう。トールに運ばれていきながら、マリアラは悲しくなった。本当に、デクターには、迷惑をかけてばかりだ。

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