マリアラはポケットを探り、焼け焦げたビロードの小袋を取りだし、その中から自分のコインを選び出した。コインをいつも首元にぶら下げておくのは肩が凝るし、万一見とがめられては危険なので、コインは元どおりビロードの小袋の中にフェルドのものといっしょに戻し、鎖だけを首にかけた。ペンダントを鎖に通すのは簡単だ。魔力の結晶はマリアラの意志をくみ取って鎖を取り込んで固定した。
孵化する前に戻ったような気がした。このペンダントは、エスメラルダの国民がみんな持っている発信機によく似ている。作動させればきっと、かすかに振動して光るだろう。
マリアラの首元に小さな滴のようにペンダントが収まったことで、ジェムズはほっとしたらしい。微笑んで珈琲を飲み、それで、と言った。
「俺はここから近い、ウェルラという小さな町にいたんですが、昨日ミランダから連絡がありまして。トールの行き先かもしれないという建物の写真を受け取りましてね、どうもこれ、見覚えがあって……アリエディアにある元ホテルじゃないかと」
「えっ」
マリアラは座り直し、ジェムズは懐から写真を取り出した。間違いない、おとといレイルナートが描いた絵を写したものだ。
「今は営業してないはずです……俺の記憶違いかもしれないんですが、一度、見たような気がするんです。昔は結構有名なホテルだったらしいんですが、持ち主が破産して競売にかけられて、というニュースがあったような。この看板、外れかけてますよね。でも字も少し見える。名前を構成するアルファベットも一致しているんですよ。まあうろ覚えなので自信はなかったんですけど、そこにまたマルゴットから、あなた方をアリエディアに送ったと連絡があったもので、それならと急いでやってきたんです。今から調べにいってみます。何か分かったらご連絡しましょう」
「ありがとうございます……!」
マリアラはホッとした。雲をつかむような話だったが、まさかこんな短時間でホテルの目星がつくなんて。いや、トールが今もそこにいるかどうかは分からないけれど、全く足掛かりがないよりはずっといい。
慈善事業をするつもりはないと言いながら、彼女を連れてきたデクターの真意が少し理解できた。
レイルナートに協力してもらえれば、フェルドと連絡を取ることもずっと簡単になるのではないだろうか。時間が分からないというのがネックだけれど、全く手掛かりがないよりは数倍もマシのはずだ。
少し光が見えてきた。それはグールドのくれた大きなチャンスのお陰だ。そのことを一生忘れるまい。
――覚えておいてくれるだけで、充分だから。
この世にそんな純粋な好意があったのか。そう考えて、マリアラは哀しくなった。マリアラが彼に抱いていた印象は、ただ恐ろしいというだけだった。自分の腹を割いたのを見たときは、気でも狂ったのかと思った。次に何をするかが予測できない、人間そっくりの猛獣みたいな人だと思い込んでいた。その陰にこんなに純粋な心があったなんて、想像してもみなかった。
もう一度会いたかったと、思った。
ジェムズはその後少しして、絵のホテルに行ってみると言い置いて出て行った。明日の朝、報告に来てくれると言う。
マリアラは窓の外を見た。ここの緯度はエスメラルダより、少しだけだが北に位置する。おやつ時というこの時間、景色はもう夕暮れだ。レイルナートもそろそろ帰ってくるだろう。
デクターはのんびりと香茶を飲んでいる。マリアラより先に部屋に戻る気はないらしい。
きっとあの手記がここの図書室にあると知ったからだ。そう思うと、先程の悔しさがまたむくむくと甦ってきた。レイルナートの気持ちがよく分かると、マリアラは思った。絵を描くことを邪魔されて、悔しくて八つ当たりをした、とレイルナートは言った。本当に、その気持ちはよく分かる。
自分の欠点だと自覚しているもののひとつに、頑固で融通が利かない、というものがあるけれど、こと歴史のことになるとその欠点は何倍にも増幅するらしい。とても悔しい。目の前にドロテオ=ディスタの手記という重要なものがあるのに、デクターはそれをマリアラに読ませてくれる気がない。口では『読んじゃダメだなんて言ってない』と言うくせに、態度では雄弁にそう言っている。
でも、そんなのおかしい。マリアラが読みたいものをデクターに邪魔する権利はないはずだ。デクターもおかしいと思うからこそ、口ではそう言わないのだろう。
マリアラは策略を巡らせた。夜にこっそり取りに来てでも読みたかった。だって明日、ジェムズが報告に来てくれて、その後にはこのホテルを出なければならないから、機会は今夜しかないのだ。今夜はきっと眠れないのは分かっていた。トールの消息とグールドのことが気になって、朝までごろごろするだけだとわかっていた。それなら責務やその他のことについて調べた方が、建設的に決まっている。
でも問題がひとつある。今夜泊まるのは居間と寝室の二間続きの部屋で、居間にある簡易寝台でデクターが、寝室の方でマリアラとレイルナートが休むともう取り決めてある。寝室には、窓はあるが、出入り口は居間に続くひとつしかない。廊下に出るためにはデクターの部屋を通らなければならないのだ。マリアラは考え込んだ。どうにか、デクターの部屋を通らずに図書室にくる方法はないだろうか。
――ある。ひとつだけ。
マリアラはデクターを見た。
「……お手洗い、行ってくる」
「あーどーぞ」
軽いものだ。デクターもまさかマリアラがそこまでしてあの本を読みたがっているとは思っていないのだろう。自分でも、まさかそこまでするのか、と、思わないでもない。マリアラはお手洗いに行った。本棚のある方とは反対側だ。
中は無人だった。個室が三つ、掃除用具入れがひとつ。
誰かに気づかれて移動させられたり回収されたりしないように、くれぐれも注意しなければならない。
マリアラは頭上を見上げ、手頃な棚を探した。まさかそこまでするのか、と、また思った。馬鹿馬鹿しい気持ちにもなったけれど――
それに、必要な魔力を捻出できるかどうかも分からない。
……そうだ、と思った。魔力を捻出できなかったら諦めよう。そうすれば諦めもつくだろう。でも、試してみないでそのままホテルを出ることになったら、この先ずっと、試してみなかったことを後悔し続けるような気がする。
普通の人の身長では覗けない高さに、手頃な棚があった。結構頑丈そうで、マリアラが乗ってもすぐには崩れないだろう。トイレットペーパーのパックが山積みになっている。いくつかのパックを小さくしてスペースを開け、天井までの高さを測り、出現する時には体を丸めておくことだ、と、自分に言い聞かせた。ドロテオの手記が読みたくて木っ端みじんの末路なんて、馬鹿馬鹿しくて涙も出ない。
空いた空間に、自分のコインをそっと乗せた。
個室を全部覗いて、誰かがトイレットペーパーを補充する必要がないよう、予備をふたつずつ配った。それでほっとして、マリアラはお手洗いを出た。本当にそこまでするのかと、また思ってみないでもなかった。
――だからあなたは、自分のしたいとおりにするのが一番いいですよ。
以前ジェムズに言われた言葉を思い出す。それからグールドにも、結局、マリアラが一番したかったとおりにしたのが――殺人鬼だからという制止に従わずに治療をしたのが――受け入れられたということだったらしい。それなら、今回だってしたいとおりにして構わないはずだ。――我ながらそれはちょっと無理がある、そう思いながらマリアラは喫茶室へ戻った。
*
レイルナートは大喜びで帰ってきた。
お土産のアイスはとても美味しかった。デクターが知っていたくらいだから、有名なのだろう。舌触りがもちもちしているアイスなんて初めてだ。デクターはチョコレート、マリアラはバニラ、レイルナートはストロベリーを堪能した。そうしながらレイルナートは美術館で見たすばらしい絵の数々を聞かせてくれた。色使いのすばらしさ、構図の見事さ、そしてその絵に込められた描き手の思いすべてに圧倒された、あたしもいつかああいう絵が描きたい、そう語る彼女はとても幸せそうだった。
食事と入浴が済み、マリアラとレイルナートは寝室に引き上げた。レイルナートは疲れたらしく早々に寝台にもぐりこんだ。マリアラは初めから寝る気がなかった。着替えないまま寝台に寝転んで、レイルナートの邪魔にならないよう小さな明かりを灯して、借りてきた――デクターが、これは面白かったよ、と、選んできたもの――を読んだ。学術書ではなく小説、というか、お伽話のようなものだったが、なるほど確かに面白かった。
ある、魔物に魅入られたお姫様の話だった。
幼いころから何不自由なく育てられたそのお姫様は、マリアラの感性からすれば不思議な性格の持ち主だった。でもそれは、当時の貴族が皆もっていた価値観によって育まれたものだったのだろう。身分の上下というものが彼女の行動すべてに明確な影響を与えていた。下女と呼ばれる、洗濯や掃除を担当する召使いは、彼女の視界には入らなかった。故意ではなく、見えなかったらしいのだ。侍女と呼ばれたらしい、貴族の身の回りの世話をする人間は、用を言い付ける時だけ視界に入れた。貴族の中にも明確な序列があって、彼女はいっそ律義なほどの厳格さでその序列を遵守していた。自分より上位の貴族の子女にはひざまずかんばかりの様子で接し、下位の子女には用を言い付けて体よく目の前から追い払った。
そんな彼女に、ある魔物が近づいた。魔物が人間の姿を取る時は、金髪の、とても美しい若者の姿を好んでいた。
名前を、アルベルトと言った。
「……寝ないの?」
レイルナートがそう言った時、マリアラはちょうど晩餐会で、お姫様とアルベルトが初めてダンスをするところを読んでいた。アルベルトは貴族ではなかったが、国で一番偉かった王様が、お姫様にアルベルトを紹介したので、お姫様の視界にも入ったというわけらしい。初めは彼を邪険にしていたお姫様だったが、アルベルトは巧みに彼女を籠絡していく。魔物だと打ち明けたのも、彼女の心を支配するためで――
「本が好きなのね」
はっ、とマリアラは我に返った。まずい、この本、デクターに丸め込まれたようで悔しいが、本当に面白い。
「ごっ、ごめん。起こしちゃった?」
「ううん。でも申し訳ないけど、明かりを消してもらえない……?」
「ごめんね、疲れてるのに」
「寝た方がいいわよ。明日は早いんだし」
「うん……」
マリアラは明かりを消し、本を抱えて寝台にもぐりこみ、丸くなった。
眠気は全くない。手のひらに握り込んだ、フェルドのコインの感触を確かめた。息をひそめて、レイルナートの寝息が再び聞こえ出すのを待った。懐かしい気分になった。一般学生だったころ、消灯時間がきてもきりのいいところまで読み終えていなかった時、マリアラはよく掛け布団を被ってその中で本を読んだ。寮母の確認の足跡が近づいてくると明かりを消して、布団の中で本を抱えて、寮母が扉を閉めて遠ざかるまで息をひそめていたものだった。
レイルナートが静かになった。寝息は聞こえない。よっぽど疲れたのか、すぐに深い眠りに入ってしまったのだろう、とマリアラは考えた。寝台にじっと沈み込んで身動きもしない時間が、十数分を越えたとき、もう我慢ができなくなった。アルベルトがなぜ彼女に近づいてきたのかを知りたくてたまらなかった。アルベルトの描写はまがまがしくて、物語に不吉な影を落としていた。その影がお姫様を取り込んでしまったら、いったいどうなるのだろう。
それに、ふたりの姉妹の行く末も気になる。
いやむしろ、主人公のお姫様より、マリアラはすでにその姉妹の方が気掛かりだった。その姉妹はお姫様の友人として登場する。姉妹と言ってもふたりには血のつながりがない。しかしとても仲むつまじく、お姫様よりずっと好感がもてるのだ。
ふたりの家柄はお姫様より上だ。姉はその貴族の嫡子であり、押しも押されもせぬ令嬢だった。凛々しく、利発で、とても気高い。しかし本の虫だというのでがぜん親近感が湧いてしまう。物語の中では、紅ばら、という名で呼ばれ、主人公のお姫様は紅ばらの前ではまるで侍女のようにふるまっていた。
しかし妹は、もっとも身分の低い貴族の血筋だった。当代一と謳われた美貌の少女だった。裁縫も歌も料理も見事にこなし、茶葉の調合までたしなみ、紅ばらの父親に見いだされて学友に選ばれた。そのうち実家の両親が病死したので、そのまま大貴族の養子となった。彼女の名は白ばら。気高く優しい心をもった、とてもけなげな少女だった。しかし主人公のお姫様は白ばらの中に流れる下流貴族の血を蔑み、彼女が視界に入らないよう、さまざまな雑用を言い付けて追い払うのだった。
――アルベルトの毒牙が、紅ばらと白ばらにかけられたらどうしよう。
マリアラは本とコインを握り締めた。掛け布団をそっと外し、寝台の上で出来る限り身を丸めた。ドキドキしながらコインに向けて祈る。お願いだから、お願いだから、お願いだから……
きゅん。
手のひらの中でコインが応えてくれた時、その幸運にあんまり驚いて……レイルナートが跳ね起きたことに、マリアラは気づかなかった。
*
棚は期待どおり頑丈で、マリアラが出現しても崩れなかった。
辛うじて。
マリアラは木っ端みじんにならなかったことに安堵したが、埃くさい真っ暗な空間に、みしり、と不穏な音が響いたことにぞっとして、慌てて手探りをした。明かりを出そうとしたが、相変わらず点け方は思い出せない。おかしい、と思う。コインに魔力は渡せたのに、明かりは出せないなんて。
しかし布団の中で既に暗闇に目が慣れていたので、おぼろげに辺りを見て取れた。トイレの仕切りを探し出して体を支え、なんとか棚を崩壊させずに済んだ。床に降り立ち、マリアラは震える安堵の吐息をついた。危なく、こんな素敵なホテルの備品を破壊するところだった。
明かりのスイッチを入れ(ここのホテルは、ルクルスも泊まるためか、エスメラルダのように魔力を使わないと何もできない、ということのないように設計されているらしい)、眩しさに目が慣れるのを待ち、それからまたトイレの仕切りによじ登って、棚の上からコインを回収した。小さく縮めて隠しておいたトイレットペーパーのパックを元に戻して棚に並べ終え、周囲を見回す。棚を支える金属のネジが、ひとつ外れかけている。手を合わせてそこに感謝と謝罪を捧げてから、手を洗い、体の埃を払い、紅ばらと白ばらの本を取り上げて埃を叩きながら、明かりを消した。
扉を開けて、喫茶室兼図書館に足を踏み入れる。
窓から月の光が差し込んでいた。それ以外にも、ぼんやりと明かりがついていた。夜中に本を取りにくる客が難儀しないようになのだろう。ひじかけ椅子の周りに置かれたランプが穏やかに光っている、きっと、ここに座って読んでもいいということなのだ。マリアラは嬉しくなって、ひじかけ椅子に本をおいた。どうしよう、と、考える。ドロテオの手記を読むのが目的だったはずなのに、今ではこちらの方の本が気になってたまらない。
なぜ白ばらを主人公にしなかったのだろう。
椅子に座り、明かりのひとつを近くに引き寄せ、マリアラは考える。
白ばらの方がよほど好感がもてるのに。主人公のお姫様や、他の貴族の子女たちが白ばらに辛く当たるたび、マリアラは真剣に腹が立った。白ばらの方が優しく、可憐で、気高くて、可愛らしくて――どんなに悲しい仕打ちをされても、彼女は報復ということに、思い至りもしないらしい――彼女に求婚する男性が現れるたび、主人公の周りの令嬢達は、言わば白ばらのせいで失恋させられているわけだが、しかしどう考えても白ばらに非はない。むしろ失恋した令嬢が白ばらに冷たい仕打ちをするたびに、彼女がかわいそうではらはらして、本の中に入って行って彼女の代わりにやり返してやりたいと思うほどだ。なぜ白ばらを主人公に選ばなかったのか。紅ばらの方だっていい。彼女は正真正銘の王位継承者と恋に落ち、その王子様はいつか兄王子の手助けをするために、間抜けの仮面を被っているのだが、王子が自分を見張るいけ好かない神官の目を欺くため画策するあれこれに、紅ばらはすべてを知りながら協力しているのだ。どうしてこのふたりではなく、こんな好感のもてない令嬢を主人公にしているんだろう。そこが気になって、続きも気になる。
でもドロテオの手記は今を逃したら読めないはずだ。白ばらの本は、デクターが勧めたくらいだから、頼み込めば一冊買ってきてくれるかもしれない――ああ、でも、ダメだ。マリアラがもっているわずかな小銭だけでは、娯楽のための本を買う勇気がでない。
どうしよう。
「……まさかコインで来たわけ?」
出し抜けに声をかけられ、マリアラは文字どおり飛び上がった。
少し離れた本棚の陰から、デクターが姿を見せた。
デクターは奇妙な表情をしていた。怒っているのか、顔が歪んでいる。目を吊り上げ、唇の端が怒りのためかぴくぴく震えている。デクターはゆっくりと歩いて来、マリアラの前に立って、
「ぶふっ」
変な声を出した。次いで、しゃがみこんだ。
「でひひひひひひひひ」
声を殺して、身もだえるように彼は変な声を絞り出した。マリアラは呆然としていたが、『変な笑い方をする』、というアルガス=グウェリンがいつか言った言葉がぽつんと浮かんで、我に返った。
変な笑い方されてる。
つまり笑っているのだ、とそこまで理解した時、デクターが顔を上げた。
「つか何考えてんだ!? こんなことのために! 危ないだろ!」
「だ……だって……」
「ってそっか俺の部屋通らないで出るために……そこまでするか! そこまでするのか! あーもー何やってんだくっそ」
また彼はでひひひひひひひひ、と笑った。マリアラとしては、そんなに笑わなくても、と思うしかない。

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