間話 雪の降る街(2)

「……行かねーの?」

 ヴィンセントに声をかけられ、リンは我に返った。そうだった。

 リンはむすっとして足早に体育館の階段を上がった。得体の知れない男と一緒に行かなければならないのが落ち着かなかった。リンはヴィンセントを知らない。こんな印象的な男を忘れたりするはずがない。なのに。

 ――本当にヴィンセント=ラングラーという名前なのかどうかだって、わかったものじゃない。

 グレゴリーもジェイドも、それを警戒しろとリンに口を酸っぱくして言った。これからリンは保護局員の同期たちと交流を深めていくことになる。新しい仲間に大勢会う。姿を変えられるあの男がリンに近づこうとするならば、同期を装うのが一番手っ取り早いだろう。

 昔の彼氏、というポジションならば、初対面で馴れ馴れしく声をかけてきても不自然ではない。我ながら辟易することに、リンはそう考えながら体育館の中に入り込んだ。身を守るためとは言え、近づいてくる人みんなを疑わなければならないなんて。

「な~な~な~な~、ほんとーに、覚えてね~の?」

 リンの後について歩きながらヴィンセントがそう言ってくる。躾のされていない大型のバカ犬にくんくん嗅ぎ回られているみたいな気がする。と言って、『あの男』だと頭から決めつけて邪険にするわけにもいかないところがややこしい。今年のリンの同期は八十人近くいるのだ。今後一生彼らを疎んじて距離を置き続けることは全く現実的ではないし、得策でもないだろう。そもそも、リンの同期に化けて近づいてくると決まっているわけでもないのだ。

 自分に言い聞かせた。疑っていることを、悟られないようにしなければならない。
 だからもう一度考えた。ヴィンセントの声とイメージに、本当に心当たりがないかどうか。

「……あのね、この手のナンパにはほんっとーにうんざりしてるの。他を当たってよ」
「ちーがーうーよー!」

 ヴィンセントが泣き声を上げる。リンは構わず、広々とした体育館のホールを歩いた。ジャージで集合(着替え持参で)と通達を受けていたので着替える必要はなかった。他にもジャージ姿の男女が三々五々集まり始めていた。リンは、フェリクスの言葉とヴィンセントから心を切り替えようと努めた。

 気が重くなることに、既に彼ら同士は知り合いだった。「よー」とか「その後どう、あの難しい先輩は」とか、親しく声を掛け合う姿がそこここで見られた。当然だ、彼らはもう初対面じゃないのだ。この合同訓練は毎週行われる。グールドの事件のせいで、リンは初めの二回に出られなかった。既にできあがっているグループに入り込むのは難しい。リンは二回目に欠席しなければならないことが判明した時点で、もう仲のいい女の子の同期を見つけることを諦めた。ただでさえリンは悪目立ちしてしまうたちだ。その上グールドの事件は知れ渡っているだろうし、極め付けには、同い年の女の子はひとりもいないとわかっている。いいのだ、と思う。無理に友情を育まなくても構うまい。ただ、業務に差し障りが出るほどに孤立してしまうのを避けることだけ考えよう。

 ひそひそと囁き交わす声が耳につく。やはりリンは有名になってしまっているらしい。ほらあのセレモニーの時の――人質――入院――検査終わったのかな――魔法道具の機転でもう昇進――ひそひそ。ひそひそ。

 ヴィンセントもそのささめきに気づいて、ぐるりと周囲を見回した。威嚇するように歯を剥き出したその表情を見て、ああやめてくれ、とリンは思った。ヴィンセントがリンを庇って周囲を恫喝などしたら、リンが同期に溶け込むのはもう絶望的だ。

「やあヴィンセント」

 その涼やかな声は、絶妙なタイミングで放たれた。

 天の救いだとリンは思う。まるで雲上の音楽のような軽やかな声だった。周囲の囁きがぴたりと止み、ヴィンセントとリンは同時にそちらを振り返る。

 そこに、貴公子が立っていた。

 リンは瞬きをした。

 天井の高い体育館の入り口から堂々と歩いてくる。その『貴公子』をみた瞬間、時間が止まったような気がした。まるで芸術のような風景だった。玲瓏という言葉がこれほど似合う男を、リンは生まれて、初めてみた。

 ――すっごい、綺麗な人。

 ジャージを着ているのに、翻るマントまで見える気がする。金髪に近いほど明るい髪はさらさらと揺れて辺りに光を振り撒き、瞳は灰色がかった藍色だ。まるで美術品のような完璧な造作、体は華奢で、硝子細工のようだ。

 妖精かもしれない。

「そちらが」

 にっこりと、『貴公子』は微笑んだ。

「君の愛しの姫君かい、ヴィンセント。初めまして、リン=アリエノール……だよね? 僕はオリヴィエ=リエロノール」
「ああ……あなたが」

 リンがうなずくと、オリヴィエは麗しく首をかしげた。

「知っててもらえたなんて光栄だな。僕たち、年齢で言えば一番の下っ端なんだ。これからよろしくね」
「こちらこそ」
「ケガをしたと聞いたよ。ひどい目に遭ったね。もう大丈夫なの?」
「ええ、お陰様で」
「早速昇進だってね。君の機転はすばらしかったから、当然だけれど」

 リンは心底、オリヴィエの登場に感謝していた。
 ひそひそしながら出方を窺われるより、オリヴィエのように単刀直入に聞いてくれた方がよほどありがたい。

「当然なんかじゃないわ。あたし、全然駄目だった。結果的には昇進なんてことになったけど――辞退したかったんだけど、無理だった」

「駄目だったって? どうして?」

 リンは顔が歪むのを感じた。グールドのことを思い出すと、今でも心臓がえぐられるような気がする。

「……あれは結局訓練だった。テストみたいなものだった。だから死者が――」……ひとりしか。「出なかったのよ。あれが本当の事件だったら、あたしの目の前で、子供が二人殺されていたの。もうひとりも危なかった。事件を解決する一助になったことは認めるが、そもそもは死者が出ないようにすべきだったって、偉い人に言われたもの。……本当にそうだと思う。今でもたまにぞっとするわ。保護局員になったのに、あたしはあの時、どうしようもないほど無力だった。あの時ほど自分を呪ったことってない」
「そりゃお前――」

 ヴィンセントが言いかけ、リンは微笑んで、遮った。

「あたしはあの時、初めの一人が『殺される』まで、自分が何とかしなくても、誰かが何とかしてくれるって、心のどこかで思ってた。……指摘されるまでそれに気づかなかった。国を挙げてのテストをして、それに一応は合格したから、昇進させないわけにはいかないって――あたしを称えるためじゃない、ただ国の体面のためだけの、その程度の昇進なのよ。悔しくて情けなくて、嬉しいなんて思えない」
「ごめん」

 オリヴィエが謝った。

 リンはその時、周囲の同期の人間がみんな息を止めるようにして今の話を聞いていたことに気づいた。
 自分を取り囲む雰囲気が一変していた。理解と、同情と、労りの気配。

「辛いことを思い出させちゃったね。でもね、僕は、君の行動はやっぱり素晴らしかったと思うよ。そこは認めないと。だから昇進も妥当なものだと思う。僕たちもこれから、君みたいな試験を受けることになるかもしれないんだ。その時に君のように機転を働かせれば、昇進のチャンスがあるってことだ。君が辞退してしまったら、僕たちも昇進できないって事になるよ?」

 オリヴィエの冗談めかした言い方が雰囲気を確実に救うのを、リンは感心して感じていた。同い年だとは思えないほど、オリヴィエの手管は鮮やかだった。

「そうね」

 微笑むとオリヴィエもにっこり笑う。目眩がしそうなほど麗しい笑顔だ。

「で」とオリヴィエはヴィンセントを見上げる。「お姫様に告白は済んだの? もう一度付き合ってくださいって言った?」
「ばっおおおおおおおおおまええええっ!?」

 ヴィンセントが後ずさり、リンは頭を下げる。

「ごめんなさい」
「あ、振られた」
「ちょっ!? まっ! 待て待て待て待てもうちょっと考えろー!」

「前回も前々回も、ほんっとうにすごかったんだよこの人」オリヴィエは気さくなおばちゃんのような愛嬌あるしぐさでリンにぱたぱたと手を振って見せた。「リンって子は本当にかわいくて、写真の百倍くらい可愛いんだから、出てきたら俺のだから手ェ出すなー、みたいな」

「あたし物じゃないんですけど……」

「でも本当に可愛いな」オリヴィエは全く屈託がない。「ヴィンセントの気持ちが分かるよ。ヴィンセントと昔付き合ってたんだって?」
「いやそれが……違うと思うんだよね……」
「ち、が、わ、な、い、よ!?」

 ヴィンセントが叫び、オリヴィエは身を乗り出した。

「違うって? ヴィンセントのホラだったの?」
「わかんない。覚えてないの。初対面だと思うの」

 と、周囲がいっせいに笑い出した。ヴィンセントは喚いた。

「初対面じゃねえよー! 信じてくれよおー!」
「だって覚えてないんだもの」

 ヴィンセントはがくりと頭を下げた。

「ほんっと冷たいよな……昔っからだけどさ……もー本当によりどりみどり……やっと彼氏になれたと思っても、二回のデートでポイッだもんな……」
「人を極悪人みたいに言わないでよ……」

「ヴィンセント。そういうナンパはどうかと思うよ?」

「違うわ! ほんっとーなの! 忘れられてるなんて俺も想定外なの!」
「付き合ってたのっていつくらいなの?」

 と声をかけてきたのは、一際落ち着いた声音をもつ女性だった。
 リンはそちらを見た。中性的な顔立ちの、すらりとした女性だった。リンの視線を捉えて彼女はにこっと笑った。大分年上らしい。少なくとも二十歳は越えているだろう。

 ヴィンセントは胸を張って答えた。

「七歳」

 周囲が静まり返った。
 オリヴィエが口を開け、声をかけてきた女性が口に手を当てる。周囲でまたひそひそ声が再開したと思ったとたん、リンは我慢できなくなった。

「……覚えてるわけあるかああああああっ!」

 ヴィンセントの腹にグーでパンチしないではいられなかった。ヴィンセントがよろめく。

「俺は覚えてたよ!?」
「普通の人は覚えてないよ! よくもそれで人のこと人でなしだのろくでなしだの尻軽だの軽薄だのって言ってくれたわね!」

「そこまでは言ってなかったよ?」
「七歳だったら覚えてるだろフツー!」

「君はアリエノールさんより二学年上だろ。てことはアリエノールさんは五歳じゃないか」
「それは……付き合ってたとか……認識なくって当然だと思う……」

 さっきの女性がくぐもった声で言う。リンはほっとして、晴れ晴れと笑った。

「あーよかった。あたしに非があるんだと思って必死で考えちゃったー。初対面みたいなもんじゃないのー」
「くくくくくくくく」

 変な声がする、と思ったら、さっきの女性が笑っているのだった。
 背が高く、凛々しい印象の女性だった。体はしなやかであまり丸みを感じさせず、中性的な雰囲気を醸している。目許のホクロが印象的な、涼やかな風貌だ。……それがどうやら笑い上戸らしく、口に手を当ててしゃがみこむようにして笑っている。リンは何だか嬉しくなった。随分年上のようだけど、仲良くなれそうな気がする。

「笑い過ぎっすよ」

 ヴィンセントがふてくされて言い、その人は顔を真っ赤にして体を起こした。リンを見て、何とか、笑いを押さえ込もうとしている。と、オリヴィエが如才なく口を挟んだ。

「アイリス=ヴェルディス。以前医師をされていたんだって」
「……医師を!?」

 リンは仰天した。医師という職業は保護局員に負けず劣らず花形だ。保護局員以上に難関で、試験に合格した後も、何年も研修を受けて、最終試験に合格しなければならない。ということはこの人は、少なくとも二十三歳よりは年上である。しかし顔を真っ赤にして笑っている様子を見ると、同い年と言われても信じそうな可愛らしさだ。

「……ご、ごめん」

 なんとか笑いを押さえ込んだアイリスは深呼吸をし、リンに、左手を差し出した。

「よろしく、リン=アリエノール。私は二十五歳なので、あなたがたよりだいぶ年上なんだけどね。でもせっかく縁あって同期になったんだから、仲良くしてくれると嬉しい」
「あ、はい。こちらこそよろしく。あの、あの、リンて……呼んでください。みんなも。あたしの名字、長いし、呼びにくいから」

 リンはみんなを見回した。二度も出遅れてしまったことを思えば、幸先のいいスタートだった。それはヴィンセントと、何よりオリヴィエと、アイリスのお陰だ。そう考えながら、ふと、この中に『あの男』はいるのだろうか、と、考えた。

 ――リンに近づくために、姿を変えて、同期になりすまして、リンを陥れるために――リンから『ガストンの仲間』の動向を探り出すために――この中に。

 でも。

 リンはそれを押し隠した。グールドの言葉を思い出すまでもなかった。リンはもはや本気だった。本気で『あの男』に立ち向かい、絶対にいつか、勝つつもりだった。だから。

「リンです。これからどうぞ、よろしくお願いします!」

 勢いよく頭を下げた。本当の自分を隠して、新たな場所で、新たな人達の中で、自分の足場を強固にしていく。立ち向かうための基盤を確保する。それが今の、リンの仕事だった。

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