それから、三時間が過ぎた。
ララはまだ来ない。マリアラは本を読んでいたが、一冊読み終えてもまだ連絡がこないことに、さすがに不安になってきた。日は既にとっぷりと暮れ、さっきのマヌエルが溶かした雪も、また元どおり積もり始めている。休憩所に残っている人たちはもはや全員が男性だった。あれから何度かマヌエルが来て、女性をひとりずつ送って行った。吹雪はいよいよ激しくなり、残っている人たちは既に寝支度を始めている。
〈アスタ〉に連絡しようか。どうして自分で帰ってはいけないのだろう。マリアラは居心地が悪くて身じろぎをした。休憩所にいる人たちも不審に思っているらしく、ちらちらと視線を投げて来る。
制服のままだから、マリアラが仮魔女であることは一目瞭然だ。
だから、なぜマリアラが帰らないのか、不思議なのだろう。マリアラ自身も不思議だった。どうしてこんなところで、ひとりで待っていなければならないのだろう……
「帰らないの」
声をかけられ、びくりとする。見ると壮年の男がひとり、酒瓶を手に近づいて来ている。つんと酒の匂いが鼻をつき、マリアラは反射的に身を強ばらせた。
男は少し呂律の回らない声で言った。
「あんた仮魔女だろ。箒ないの」
「あ、あります」マリアラは咳払いをした。「でも……〈アスタ〉の指示で、ここで待機って、言われて」
「へー。まーこの吹雪だしな。あんたみたいな仮魔女がひとりでふらふら飛んだら、風に巻かれて吹き飛ばされそうだもんな」
がはははは、と男は笑う。マリアラは心が萎むのを感じる。
魔力の弱い自分を、見透かされたような気がした。
「あんたイリエル? レイエルか?」
マリアラの隣にどかっと腰掛けながら男が言う。マリアラは首を振った。
「いえ……ラクエルです」
「ラクエル!?」
男が目を剥き、聞き耳を立てていたらしい周囲がざわついた。マリアラは身じろぎをした。しまった、と思った。正直に言う必要なんかないのに。
「ラクエルの左巻きの仮魔女って、……もうすぐ試験じゃないの?」
背後から声が投げられる。マリアラはさらに身を堅くした。マヌエルはみんなの憧れの職業であるがゆえに、その動向はちょっとした注目の的だ。マリアラは特に希少なラクエルなので、仮魔女期なのはマリアラひとりだ。ちょっとマヌエルのニュースに詳しい人間なら、それくらい把握していてもおかしくない。マリアラは縮こまり、周囲に人が集まり始めていることにぞっとした。
どうしよう。逃げ場がない。
「マリアラ=ラクエル・ダ・マヌエルだろ。試験……ああ、明日じゃないか!」
「へえー、明日! 頑張ってね!」
「じゃあなんで帰らないんだよ。早く帰ってゆっくり休んどかないと」
隣の壮年の男がマリアラの肩に手をおき、軽く揺すった。手は重く、不躾で、じっとりと熱かった。振り払うこともできず、ただただ身を縮めるしかない。
「相棒は? ゲームあんの?」
「あー、あるある。候補が三人いる。へえー、全員男だ。派手なゲームになりそうだなー」
さっきから情報を提供しているのは背後にいる若い男で、本棚からもって来たらしい雑誌を捲っていた。『月刊マヌエル通信』というタイトルの雑誌はマリアラも知っている有名なものだ。マリアラは走って逃げ出したくなる衝動に必死で耐えていた。ゲームの話なんて聞きたくない。明日の試験を乗り切れるかどうかで頭がいっぱいで、ゲームのことまで考えている余裕なんかない。
なのに、みんな興味本位で、ゲームの行方を取り沙汰する。
マリアラにとっては一生にかかわる大事だ。明日の“ゲーム”の行方で、マリアラの相棒が決まる、ようなものだ。到底気楽に楽しむどころではない。
マリアラの肩に手をおいたままの男が、さらに身を寄せ、その手をマリアラの背に回した。
「三人の男があんたを巡ってゲームか。いい気分だろうなあ」
――冗談じゃない!
マリアラがその腕を振り払う、寸前。
ばあん。
休憩所の扉が音を立てて開いた。
みんながそちらを振り返った。マリアラは驚いた。
そこに立っていたのは、さっきの、背の高いマヌエルだった。
黒々とした瞳がマリアラを見た。間違いない。さっきの、あの人だ。
「マリアラ=ラクエル・ダ・マヌエル」
低い声が、マリアラの名を呼んだ。
「ララは今夜帰って来られなくなった。仮魔女寮まで送るから、支度して。返事しなくていーから」
はい、と言いそうになり、マリアラは慌てて口を押さえ、立ち上がった。あの人はマヌエルだ。仮魔女は、〈親〉以外のマヌエルとは言葉を交わしてはいけない、という謎の伝統がある。
でも、助かった。
本当に本当に、助かった。
人垣を擦り抜けて、小走りに扉の方へ向かう途中、ポケットの中で無線機が鳴った。
『マリアラ、遅くなってごめんなさい』
〈アスタ〉の声だった。
『フェルドが手が空いたから、迎えに行ってくれるって――ゲームは明日からだから、今日のところはまだ、言葉を交わさないように気をつけてね。もうすぐ着くと思うわ、その近辺の雪かきの担当だったの』
「も、もう来てる。えっと」
「貸して」
フェルド、と呼ばれたマヌエルが手を差し出し、マリアラは黙って無線機を渡した。フェルドは〈アスタ〉と何か言葉をかわし、はい、と返してよこした。〈アスタ〉の声がまた聞こえる。
『その子がフェルドよ。仮魔女寮の玄関まで、送ってもらいなさい』
「でも――」
『ちょっと事件があったのよ。あのね、狩人が侵入していたの』
唐突に衝撃的なことを言われ、マリアラは目を丸くした。
「は?」
『狩人がエスメラルダの中に侵入していたの。それで、仮魔女を狙っているようだったのよ。だから警戒していたんだけど――さっき捕まったって連絡があったから。だから大丈夫。試験もちゃんと行われるから』
「そ……そう、なの?」
何それ? 何の話? 何の冗談?
理解がちっとも追いつかないのに、〈アスタ〉はさっさと話を進める。
『でももう暗いし、吹雪もひどいから、フェルドに送ってもらいなさい。それじゃ』
「あっ」
通話が切れた。マリアラは呆然と、今の情報を咀嚼しようとした。狩人がエスメラルダの中に入った? 仮魔女を狙っていた? でももう、捕まった?
――何それ?
「行くよ」
フェルドが言い、休憩所から外に出た。マリアラは慌てて後を追った。この休憩所から逃げ出せるのは、心底ありがたかった。残っている人達に頭を下げて、ブーツとコートを身につけ、吹雪の中に出た。
マリアラは自分の箒を取り出したが、フェルドは振り返って言った。
「後ろ乗って。風が結構すごいから、はぐれると厄介だし。保護膜一枚で済むから」
返事ができないのが本当にもどかしい。マリアラは恐る恐る、フェルドの後ろに乗った。箒の二人乗りなんて初めてだ。
「しっかりつかまって」
その声を最後に、体が浮いた。
マリアラは言われたとおり、フェルドのコートにしっかりしがみついた。少し浮くや否やフェルドが保護膜を張り、暴風と雪片から逃れられてほっとした。ふたりは黙ったまま、すっかり日の暮れたエスメラルダの町中を飛んで行った。
荒れ狂う吹雪が嘘のように、保護膜の中は穏やかだった。
ごうごうという音は確かに聞こえ、たたきつけて来る風と雪片は小刻みに保護膜を揺らしている。でも箒はまっすぐに飛んで行く。右巻きってこんなにすごいのかと、マリアラは圧倒されていた。マヌエルにふさわしい魔力量があれば、空もこんなふうに飛べてしまうのか。
この人はきっとイリエルなのだろう。夢のようにゆるやかに行き過ぎていく白と黒の町並みを見ながらそう考えた。
エスメラルダの町中は街灯が多く、吹雪の中でも真っ暗というほどではなかったが、それでもかなり暗い。光を媒介に魔力を使うラクエルには、こんな芸当はできない――はずだ。
マリアラはラクエルだ。だから絶対に、このフェルドという名のイリエルとは、相棒になれない。
それを少し、残念だと思っている自分に驚いた。
魔女の相棒は、自分の意志で選ぶことはできない。学問の国エスメラルダの誇る巨大コンピュータ:〈アスタ〉が、さまざまな条件を考慮して選ぶ。“ゲーム”の勝敗が、その考慮にかなりの影響を与えると言われる。
ラクエルの右巻きたちには、“ゲーム”に挑むか、それとも放棄するかの選択権が与えられる。
でも“ゲーム”の“賞品”であるマリアラには、何の選択権もない。拒否権はあるそうだが、初対面の相手だというのに、どんな理屈をつけて拒否すればいいというのだろう。ただの言い掛かりに近い理由しか挙げられそうもないし、本人の目の前で〈アスタ〉相手に駄々をこねる勇気など持てるはずもない。そもそも、なぜ候補の中に、男性しかいないのだろう? 相棒が同年代の女の子だったらそれほど人見知りもせずに済むのに、マリアラには同性の相棒ができる可能性はゼロなのだ。その事実も憂鬱に拍車をかける。
宙ぶらりんの仮魔女期を終え、ちゃんとした魔女になる日を夢見ながら、初対面の相棒を宛てがわれるその日を、心のどこかで恐れていた。――でも。
今、初めて。
独り身の若いマヌエルの中にも、こういう人がいるのだと、知って。
それなら少し、希望が持てるかもしれないと、思った。マヌエルだって人間だ。いろいろな人がいる、それは当然のことだ。それならラクエルの相棒候補の中にも、こういう人がいるかもしれない。人に嫌な仕事を押し付けるような人じゃなくて。押し付けられた雪かきを、投げ出さずにちゃんとするような、人がいてくれたら――
そんな風に、初めて、考えた。

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