移動は一瞬だ。
息を呑むような音がして、俺は目を開けた。ケイスケさんが目の前にいた。半年前とほとんど変わらない。
――いや、以前はなかった不安そうな色が見える。俺は「ども」と手を挙げた。ケイスケさんはまじまじと俺を見て、やがて微笑む。
「……久しぶりだね。きてくれて、ありがとう」
「どうしたの? 美緒ちゃんに何かあった?」
「……そうなんだよ」
歯切れが悪い。ケイスケさんは心配そうに、Twitterの滝を見上げた。美緒ちゃんのツイートがいつも流れていたあたりなのだろうかと俺は思う。
「聞いてくれるかい」
「そりゃ……そのために来たんだけど」
そういうとケイスケさんはもう一度微笑んで、近くにあったベンチに座った。
半年の間に、その場所は、少し居心地良くなっていた。焚き火の周りに棒を組んで、ヤカンをかけられるようになっている。暇を見つけて、いろんなものを拾ってきたのだろう。ケイスケさんが座ったベンチは、足が一本折れている。拾った石をかませることで、高さを調節してある。ケイスケさんが俺に進めてくれたのは座り心地の良いキャンプ用の折り畳み椅子だ。肘掛けもついていて、背もたれもリクライニング式だった。ボブが出発前に渡したのかもしれない。普段、ケイスケさんが座っているものだろう。
ケイスケさんは躊躇いながら、ゆっくりと話し始めた。
「いじめの一件は……あれからすぐに収まったんだよ。本当に君のおかげなんだ。画像の位置情報コードを削ってくれたおかげで、美緒は……まあ……写真は拡散されてしまったけど、教育委員会がかなり頑張ってくれたようでね。首謀者と取り巻きは、美緒にした仕打ちは暴行と名誉毀損に当たるとして、厳重な処分が下された。美緒の生活は平穏になった。と、Twitterでね、話してくれたよ。紗子さん……ああ、美緒のママの名前なんだけど。紗子さんも仕事が落ち着いてきたそうで、家で一緒に夕食を食べられるようになって、美緒はとても嬉しそうだった……。少なくとも、一ヶ月前まではね……」
「一ヶ月……?」
「そう、正確には、28日前。美桜が僕にDMを送ってくれたのは、それが最後なんだよ」
28日前、美緒ちゃんはケイスケさんに言ったのだという。しばらく忙しくて、連絡が取れなくなるかも。でも落ち着いたら絶対ポピンさん(ケイスケさんのTwitterネーム)に連絡するから、心配しないで待っててね、と。
というのも、美緒ちゃんのママ、紗子さんに、カレシができたのだ。
美緒ちゃんはとても嬉しそうだったのだそうだ。
「ママはパパが死んでから、ずっと一人で頑張ってきたから、幸せになってくれるといいな」
ポピン宛のDMに書いたのは、彼女の本心だったのだ、と思う。ケイスケさんは複雑だった。人間だった頃の記憶があるからだ。自分はまだここに生きているのに、愛する妻は自分を忘れ、新しい男に出会ったのか。浮気じゃないのに、紗子さんと美緒ちゃんを置いていったのはケイスケさんの方なのに、どうしてもそう思わずにはいられなかったのだと。
でも、ポピンとしてそんなことを美緒ちゃんに言えるわけがない。ポピンはただ、『良かったね』と美緒ちゃんに伝えた。『ママとカレシと一緒に、ミオちゃんが幸せになるように祈ってるよ』と。
「その話があったから、美緒がTwitterにログインしなくなっても、あまり心配していなかったんだ」とケイスケさんは語った。「彼女が新しい環境に馴染むまでの時間だと思ってね。でも先週、突然、あのいじめっ子からDMが届いたんだ。取り巻きじゃない、首謀者の子からね」
ケイスケさんの声がそこで震え、俺は思わず眉を顰めた。
「いじめっ子の? あのクソッタレな写真を撮らせた子? なんの用があって――美緒ちゃんにじゃなくて、ケイスケさん、ポピンのアカウントに届いたんだよな?」
「そう。あの子はちょっと常軌を逸してる感じだったよ。処分を受けて、その子は、元の学校にいられなくて転校した。同情なんかしないけどさ、でもその子は、新しい学校でも……いじめをしたって噂が流れて、孤立してたらしい。それで、逆恨みの気持ちを持ったんだ。誰が教育委員会に通報したのか、どうやらネットの探偵を雇って、僕のアカウントを探りあてたらしいんだよ」
「ひえ……」
思わず声を上げてしまった。いじめなんかするくらいだから、もちろん、もともとメンタルに問題を抱えた子だったのだろう。しかし中学生がネット探偵を雇うなんて。決して安くはないはずなのに。
「で、なんで連絡してきたの」
「まあ恨みつらみだよねえ……お前のおかげであたしの人生は台無しだとか、そういう類。ブロックしたんだけど、捨てアカ作って連絡してくるんだよ。で、ほっといたら昨日、これがきた」
そう言ってケイスケさんは、手にしたスマホ型の端末を操作し、俺たちの前に、一枚の画像を呼び出してみせた。
そこに写っていたのは、半年経って、だいぶ大人びた美緒ちゃん。
そしてその肩を抱く、見たことのない男。
気になったのは男が笑顔だったこと。まるで自分の所有物ででもあるかのように、馴れ馴れしく美緒ちゃんの肩を抱いていること。
そして美緒ちゃんが、真顔だったことだ。
顔色が悪い。体が強張っている。中学校のものらしいリュックを体の前に回し、ぎゅっと抱きしめている。まるで自分の身を守るかのように。
紗子さんらしい女性は、どこにもいない。
「……紗子さんは看護師の資格をとったんだ。夜勤は免除してもらっているらしいが、土日は頻繁に仕事がある。カレシはその隙に、美緒を訪ねているらしい。いじめっ子は……あたしと同じで、美緒も終わりだって。カレシがどんな人間かも知らず、初めから美緒を目当てに紗子さんに近づいたっていうのに、何にも気づかない紗子さんは、史上最悪の母親だよね……って……。世迷言だと。いじめっ子がやけになって、ポピンを傷つけたくて、あることないこと書き立ててるだけ。そう思おうとしたけど……どうしても、……そう思えないんだ、だから」
「紗子さんのfacebookは?」
「ここ十年近くログインしてない。多分メールの通知もきってるんだと思う」
「メールは」
「何度か送った。でも返信がない」
最近のスパムブロッカーは優秀だな、くそっ。
「LINEは?」
「それなんだよ」ケイスケさんは頷いて、ポケットから、折り畳んだメモを一枚取り出した。
IDとパスワードが書かれていた。その下に『けーすけ』と走り書きがされ、丸で囲まれている。
「松岡啓輔のLINEのアカウントだ。まだ生きてると思う。だからエイジ、頼みがあるんだ。……なんとかしてもらえないか」
なぜだろう、俺はそのとき、自分に『できる』ことがわかっていた。知識が、方策が、頭の中に勝手に浮かんできたのだ。
すぐさま取り掛かりながら俺は頭のどこかで、松岡啓輔から何年かぶりにLINEがきたとき、紗子さんは驚くだろうな――と考えていた。びっくりしすぎて、心臓が止まらないといいけど……。

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